尾崎義典(おざき・よしのり)|第32期・航空自衛隊

尾崎義典は昭和40年12月宮崎県生まれ、北海道出身の航空自衛官。

防衛大学校第32期の卒業で幹候78期、出身職種は飛行でF-4戦闘機のパイロット上りである。

平成29年12月(2017年12月) 統合幕僚監部総務部長・空将補

前職は第1輸送航空隊司令兼ねて小牧基地司令であった。

なお尾崎の出身地については、防衛年鑑2017年度版には埼玉県と記載があるが、第1輸送航空隊司令時代の公式プロフィールには北海道出身とあったのでそちらを優先している。

ご尊父も元自衛官で戦闘機パイロットだったため、引っ越しが多く、出身地という意識が余り無いのかもしれない。

「父の背中を越えたF-4ファントム戦闘機パイロット」

そんな言葉が、このすっかり頭が薄くなった、それでいてイケメンの空将補にはよく似合う。

尾崎義典の父、故・尾崎義弘は元2等空佐(享年40歳)。

F-4EJ戦闘機を日本に導入する黎明期であった百里基地において、この最新鋭戦闘機の臨時飛行隊長を務めた男であった。

悲劇はある日、突然のことだった。

昭和47年8月、空自百里基地の第301飛行隊に配置されたF-4EJは、臨時飛行隊長を任された尾崎義弘2空佐の指揮のもとで連日の厳しい機種転換操縦課程を繰り返す。

ただでさえ、戦闘機の操縦は過酷な訓練だ。

ましてそれが最新鋭戦闘機への転換訓練であれば、精神的・肉体的な追い込まれ方は、常人が日常で経験し想像できるレベルを遥かに超える。

そんな厳しい慣熟飛行訓練が続いていた昭和48年5月1日。

尾崎義弘2空佐と阿部正康1空尉は301飛行隊304号機に搭乗し、いつも通り百里基地を離陸して訓練に飛び立つが、間もなくして鹿島灘沖でレーダーから機影が消失し、連絡を断つ。

管制からの呼びかけにも一切応答がなく、空自は直ちに捜索隊を派遣するが、四散したF-4戦闘機の残骸を発見したのみで、尾崎2佐と阿部1尉を発見することは出来なかった。

大変残念なことだが2人は殉職と断定され、原因は、F-4戦闘機が空中爆発したことによって起きた事故であると結論付けられた。

それから40年余り。

当時7歳だった尾崎義典は、父と同じF-4ファントム戦闘機パイロットを経て、航空自衛隊の最高幹部である空将補に昇り詰めた。

そして、2018年1月現在の役職は統合幕僚監部総務部長という要職中の要職。

父に憧れ、父の大きな背中を追い掛け続けパイロットになった7歳の少年は、いつの間にか父を追い越していた。

しかし、尾崎の満足はそんな所では止まらないだろう。

なお、話はこれで終わらない。

尾崎飛行隊長が先駆けとなり、航空自衛隊百里基地の主力戦闘機として定着したF-4EJ戦闘機だが、その後昭和60年2月に、宮崎県の新田原基地に移駐・編入されることが決まる。

そしてその301飛行隊が宮崎に移駐するまさに寸前の昭和59年12月、百里基地近くの鹿島灘沖で、Gスーツに包まれた1本の大腿骨が地元漁師の網によって水揚げされた。

Gスーツに刻まれていたネームは「尾崎」。

故・尾崎義弘2空佐の遺骨で間違いないと確認された後に遺族に引き渡され、10年の時を経て、家族のもとに”里帰り”した。

当時の航空自衛隊関係者や遺族は、栄光のF-4ファントムを駆り国防を担っていた301飛行隊が宮崎に移駐することを寂しがり、尾崎2佐が再び姿を現したと噂したそうだが、おそらくそういうことであろう。

そして、7歳で殉職により父を失い、防衛大学校在職中に父の遺骨が水揚げされ初めて父を抱いて葬式を挙げることができた男が今、航空自衛隊の空将補に昇りつめた。

パイロットとして最高の栄誉であるイーグルドライバーではなく、父と同じF-4戦闘機を志し、そして見事に夢を果たした男は今、身を粉にして我が国の平和と安全のために死力を尽くしている。

(これだけ頭が薄くなるのは当然ではないか・・・)

父親の殉職という悲劇と、その後の家族の苦難を乗り越えてもなお、父の背中を追い続け自衛隊に入隊し、そして追い越したであろう尾崎義典。

父親の尾崎義弘2佐が喜んでいないはずがない。

こんな誰も知らないところにも、我が国を影で支える防人の物語がある。

さて、その尾崎について少しキャリアを見てみたいが、もちろん単なる2世パイロットではない。

そもそも、政治家と違い2世であることで優遇されるような世界でもないが、そのキャリアは極めて充実した、まさにエリート自衛官の経歴になっている。

航空自衛隊入隊は昭和63年3月。

1等空佐に昇ったのは平成19年1月なので、32期1選抜のスピード出世だ。

空将補に昇ったのは26年7月だったので、同期1選抜に比べ1年遅れということになるが、航空自衛隊では、空将補昇任時期の遅れは陸海ほどには大きな意味を持たない事が多い。

32期組は、2019年夏の将官人事で最初の空将が選抜される年次にあたるが、この際に最初に空将に上る可能性は十分の、トップエリートの一人であると言って良いだろう。

なお尾崎については、F-4戦闘機パイロット上がりとしてのキャリアも凄いが、特筆するべきはやはり、徹底した米国通であるということだろう。

判明するだけでも、米国滞在・勤務経験は3回。

米国空軍士官学校交換幹部、米中央軍司令部連絡官、そして極めつけが米国防衛駐在官だ。

若手士官としての日米軍事交流、戦時司令部としての米中央軍司令部勤務、米軍の要職にある高官と太いパイプを築くことも主要任務の一つである米国防衛駐在官。

これ以上はないほどの米国通というポストを歴任しており、航空自衛隊の最高幹部として重要な知見と人脈をもつキャリアは極めて充実している。

32期組のトップエリートとして、その動向に注目しないわけにはいかないだろう。

この先尾崎が父に見守られながら、どこまで活躍の場を広げるのか。

そんな視点でも、ぜひ防人たちの活躍を見守ってほしい。

本記事は当初2017年7月29日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年1月11日に整理し、改めて公開した。

◆尾崎義典(航空自衛隊) 主要経歴

昭和
63年3月 航空自衛隊入隊(第32期)

平成
年 月 第83航空隊
年 月 防衛大学校
年 月 幹部学校
年 月 米国空軍士官学校交換幹部

11年1月 3等空佐
14年7月 2等空佐
14年8月 航空幕僚監部防衛課
16年8月 第3航空団
17年8月 情報本部
19年1月 1等空佐
19年4月 航空幕僚監部防衛課付
19年8月 航空幕僚監部情報課付
20年6月 米国防衛駐在官
23年6月 航空総隊
23年12月 第5航空団飛行群司令
25年4月 航空幕僚監部運用支援・情報部情報課長
26年8月 第5航空団司令兼ねて新田原基地司令 空将補
28年7月 第1輸送航空隊司令兼ねて小牧基地司令
29年12月 統合幕僚監部総務部長

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省航空自衛隊 小牧基地公式Webサイト(顔写真)

http://www.mod.go.jp/asdf/komaki/greeting-1.html

防衛省航空自衛隊 主要装備Webサイト(F-4戦闘機写真)

http://www.mod.go.jp/asdf/equipment/sentouki/F-4/

防衛省 防衛白書2004公式Webサイト(米中央軍司令部連絡官時代の顔写真)

http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2004/2004/html/1642c2.html

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