國友昭(くにとも・あきら)|第29期・陸上自衛隊

国友昭は高知県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第29期の卒業で幹候66期、職種は普通科だ。

生年月日は判明しないが、第29期であれば、ストレートの場合昭和37年度の生まれにあたる年次になる。

平成29年8月(2017年8月) 第7代中部方面混成団長兼ねて大津駐屯地司令・1等陸佐

前職は第14旅団副旅団長兼ねて善通寺駐屯地司令であった。

なお、中部方面混成団長としての指導方針は以下の通り。

【統率方針】任務完遂

【要望事項】感動、感激、感謝

【駐屯地司令要望事項】感謝と笑顔

2017年12月現在、中部方面混成団長を務める國友だ。

第29期組のベテランであり、各地の普通科で指揮を執ってきた現場経験豊富な1等陸佐である。

突然の個人的な話で恐縮だが、管理人は中部方面混成団が所在する大津駐屯地には特別の思い入れがある。

というのも、もう40年程も前の話だが、大津駐屯地には8年間、毎週のように通っていたからだ。

グラウンドを借りて実施している民間のラグビースクールに参加していたためだが、駐屯地のアスレチックではよく遊び、また年に数回程度、隊員さんに混じってカレーも頂いた記憶がある。

2014年の駐屯地記念祭に足を運んだ際、案内の隊員さんに聞いたところ、今もラグビースクールに場所を提供しているそうだ。

とても懐かしい、私の自衛隊好きの原点の地でもある。

その大津駐屯地だが、2018年の駐屯地記念祭の頃は、おそらくまだ國友が団長を務めているのではないだろうか。

個人的に、ぜひ一度、遠目からでもお見かけしたいと思っている高級幹部なので、足を運んでみたい。

とは言え、国友も29期なので、同期と言えば既に将官に昇り、陸上幕僚長レースの最終候補者も出揃っている世代だ。

以下の幹部たちと同期である。

本松敬史(第29期)・統合幕僚副長

上尾秀樹(第29期)・防衛大学校幹事

高田克樹(第29期)・陸上幕僚副長

柴田昭市(第29期)・第1師団長

清田安志(第29期)・第6師団長

納富 中(第29期)・第9師団長

山内大輔(第29期)・陸上自衛隊関東補給処長

※肩書はいずれも2017年12月現在

29期組は、ストレートであっても2018年に56歳を迎える。

つまり、1等陸佐が定年退職となる年齢だ。

そういった意味では、おそらく國友にとって中部方面混成団長は最後の補職になる可能性が高い。

退職時に特別昇任で陸将補に昇り、退役となるのではないだろうか。

遠目からでもお目にかかれるのは、次がラスト1チャンスということになりそうだ。

次に、國友のキャリアについてだ。

そのキャリアの中で目立つのは、やはり2009年8月から2012年3月まで務めた、第22普通科連隊長のポストだろう。

第22普通科連隊は宮城県の多賀城に所在している。

この連隊で連隊長に就任する前、國友は第13旅団(広島県海田町)司令部第3部長の任にあったが、期間中山口県で発生したゲリラ豪雨による山体崩壊(死者32名)などの災派にあたり現場指揮を執った経験から、第22普通科連隊長就任直後直後から、災害時の派遣体制を念入りに準備することから仕事に着手した。

地域住民や地域の地方自治体とも密接に連絡を取り合い、災害時にはどの地域にどの中隊を派遣するのか。

極めて精緻で、用意周到な活動計画を立案し、「まさか」に備え繰り返しの訓練を隷下部隊に要求した。

できればこのような計画は「無駄」に終わって欲しいと願いながら繰り返しの計画修正と訓練に明け暮れること1年半。

國友が第22普通科連隊長に就任して1年半が経過した2011年3月11日、その時が起きてしまった。

東日本大震災の発生である。

震災発生時、國友は王城寺原演習場に射撃演習に出掛けており、多賀城駐屯地に不在であったが、なにせあの激烈な揺れだ。

直ちに上級単位である第6師団長に連絡を取り、災派(災害派遣)の準備にかかることを伝え終わると間もなく、携帯電話が不通になる。

急いで駐屯地に帰ろうにも道路は大渋滞。

やっとの思いで駐屯地に戻ると、そこにはグラウンドに整然と並ぶ、災害派遣準備をすでに万端の体制で終えた車列が國友を待ち構えており、「部下の手際の良さに感動した」という程であったが、状況は過酷であった。

大津波警報の発令だ。

多賀城駐屯地は海岸から2km離れた内陸部であったため、災害時の津波ハザードマップでも安全地帯とされていたエリア。

にも関わらず、14時30分に駐屯地に帰隊した國友は、尋常ではない揺れから勘案し隷下の隊員たち全員に、直ちに屋上に避難することを命令。

そして隊員全員が屋上に避難し終えた僅か数分後の14時59分、多賀城駐屯地を津波が襲い、万端の準備を整えた災派車両は全て津波に呑み込まれてしまう。

そしてこの過酷な状況下にあって、さらに追い打ちを掛けたのは夕暮れからの降雪だ。

大震災と津波、それによって破壊し尽くされた町並みがみるみる白く染まっていく。

この状況は極めて危険であり、被災者たちの生命を1晩で奪い尽くしてしまうだろう。

この状況下にあり國友は「1分でも1秒でもいいから早く展開しろ!」と隷下部隊に命じ、水没した車両を放棄してボートに乗り、演習手順通りの持ち場に各部隊を展開させ、人命救助にあたることになる。

とは言え、この状況は自衛隊員自身も「被災者」である。

さらに第22普通科連隊は約半数が地元宮城の出身であり、東北地方出身者という意味では地元出身者90%以上で構成される「郷土部隊」で、その妻子や家族も駐屯地周辺に多く居住していた。

当然、安否もわからない。

今、家族に必要なのは自分の助けである。

どれだけの隊員がそう思ったであろうか、そして何人かの隊員は実際に、家族の安否確認に隊を離れることを希望したと言うが、これらの要求を國友は全て却下し、地域住民の救助を最優先する過酷な命令を下す。

結果的にこの駐屯地では1名の隊員が震災で命を落とし、家族が死亡した隊員も8名いた。

死亡した隊員は、休暇中であったにも関わらず震災発生を受け、帰隊するために多賀城に車を飛ばしている最中、仙台港近くで津波に巻き込まれて死亡していた。

また、この時に死亡した2曹はレンジャー訓練修了者であり、多賀城の精鋭中の精鋭隊員で、死体には津波の中でなんとか逃れようと、靴とズボンを脱ごうとした形跡があったそうだ。

休暇中であるにも関わらず、その強い責任感から駐屯地に駆けつける最中に死亡した彼は、もちろん殉職扱いとなり、特進が認められた。

このような過酷な状況の中で「生命のリミット」である72時間の間、國友は隷下隊員たちに全力で住民救助に当たることを厳命し、自らもその陣頭に立ち、また遺体を発見した際にご遺族に引き渡す最も辛い役割は1件たりとも部下に任せず、國友自らが行った。

そのようにして多賀城の第22普通科連隊が救出した命は実に4700人以上。

発見しご家族にお引き渡ししたご遺体は450名を数えた。

そして震災発生から72時間。

國友はここで初めて、隷下隊員に対し初めて一時帰宅を許可し、「家族」としての顔に戻ることを許した。

ほとんどの隊員は、この時点で家族の安否は確認できていない上に、災派の現場で見たのは瓦礫と化した多くの家屋と、家屋の屋根などに無残に遺されたご遺体などの光景である。

絶望的な気持ちの中でそれぞれの家に向かうも、ほとんどの隊員の家はやはり瓦礫と化しており、家族の姿は見当たらないケースがほとんどであった。

そんな中、避難所や親戚宅などに避難している家族と初めて対面し、子供達をその胸に抱くことができた多くの隊員たちは、人目もはばからずに大声を上げて号泣したという。

私たちは、強く、そして優しい自衛隊員の「表の活躍」しか見ていないが、多賀城の隊員のように、自らとその家族も被災者でありながら、国家の危機に際して公務を優先し、家族を後回しにせざるを得なかった隊員たちがいることも決して忘れてはならない。

この第22普通科連隊の活躍と國友の指揮はもはや自衛隊内でも「伝説」となりつつあり、後日、第38代東北方面総監に就任した山之上哲郎(第27期)が第22普通科連隊を初度視察した際(2016年当時)、訓示でまず口にしたのは震災時における隊員たちの勇気ある活躍と働きぶりへの賞賛であった。

今の日本において、指揮官としてこれほど過酷な命令を下し、自衛隊としての本分を全うすることを要求した國友ほどの指揮官も稀であろう。

中には國友を心から恨み、あるいは今も恨んでいる隊員やそのご家族がいるかもしれない。

そのお気持ちはとても理解できる一方で、国家の危機に際して私心を捨て、公務に携わることを要求される自衛官とはこういう過酷な存在なのであること、その過酷な命令を下しきった國友もまた、本当の強さを持った高級幹部と言えるであろう。

なお國友は、震災派遣中から直後においても、自らとその部隊の活躍を褒められることを好まなかった。

曰く、「国民の皆様の気持ちは嬉しいが、我々が感謝されるのは、国家存亡の時だけです。喜ぶようなことではありません」と。

これは昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式において吉田茂総理大臣が述べた訓示が心に強く根付いている上での言葉だと思うが、國友に限らず、全ての自衛官の価値観に強く根付いている名演説であろう。

その名演説とは以下のものだ。

”君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。
御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。”

この言葉に、どれほどの自衛隊員たちが心励まされ、そしてこの言葉を心の支えに過酷な任務や訓練に耐えることができたであろうか。

人の上に立つリーダーの心を打つ言葉とは、正にこのようなものであるのだろう。

そしてその価値観は時を越え、國友の心にも突き刺さり、多くの国民の生命を救うために今日もその心身を鍛え続けている。

「我々の後には何もない」

震災後にメディアの前で國友が語った言葉だ。

自衛隊は国家の危機に際して最後の砦になる、過酷な任務を背負う存在だが、このような指揮官と、その指揮官の命令をやりきった自衛隊員は本当に強い。

日露戦争以来の「東北の強兵」を示し、新たな伝説をつくった第22普通科連隊とその指揮を執った國友。

関係者とご家族全員の尽力を含め、一国民として心から感謝したい。

本記事は当初2017年8月9日に公開していたが、加筆修正が重なったので2017年12月30日に整理し、改めて公開した。

なお、ここから下の部分は2017年8月に公開した当時のものをそのまま残している。

◆國友昭(陸上自衛隊) 主要経歴

昭和
60年3月 防衛大学校卒業(第29期)
年 月 第4普通科連隊(帯広)

平成
年 月 第7普通科連隊(福知山)
年 月 第3師団司令部第3部(千僧)
年 月 幹部学校付指揮幕僚課程(目黒)
年 月 普通科教導連隊第2中隊長(滝ヶ原)
年 月 陸上幕僚監部防衛部(檜町)
年 月 幹部学校教育部戦術教官(目黒)
年 月 中部方面総監部防衛部(伊丹)
年 月 幹部学校付幹部高級課程(目黒)
年 月 幹部学校教育部戦略教官(目黒)
年 月 第13旅団司令部第3部長(海田市)
21年8月 第22普通科連隊長(多賀城)
24年3月 第12旅団司令部幕僚長(相馬原)
25年12月 自衛隊京都地方協力本部長(京都)
28年7月 第14旅団副旅団長兼ねて善通寺駐屯地司令(善通寺)
29年8月 中部方面混成団長兼ねて大津駐屯地司令(大津)

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省陸上自衛隊 大津駐屯地公式Webサイト(顔写真及び着任式画像)

http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/macb/html2/tyakuninsiki29.8.html

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