黒岩太一郎(くろいわ・たいちろう)|第35期・陸上自衛隊

黒岩太一郎は昭和42年9月生まれ、東京都出身の陸上自衛官。

防衛大学校第35期の卒業で72幹候、職種は普通科だ。

防衛大学校時代は野球部で鳴らしたスポーツマンである。

平成28年8月(2016年8月) 第27普通科連隊長兼ねて釧路駐屯地司令・1等陸佐

前職は第2師団司令部第4部長であった。

2017年9月現在、全国を転々とする高級幹部にしては珍しく、令夫人やご子息ご息女とともに釧路に赴任し、第27普通科連隊長に着任。

第27普通科連隊は第5旅団隷下にあり、即応近代化された普通科連隊(軽)で、旅団編成下にあるやや規模の小さい普通科連隊となっているものの、道東沿岸部を防備する極めて重要な任務を背負っている。

なお第27普通科連隊は、全国でも数少ない日本陸軍からのナンバリングを踏襲しており、またナンバリングから所在地まで同一というのはここ、歩兵第27聯隊(連隊)の名を引続ぎ釧路に所在する、第27普通科連隊のみとなっている。

その歩兵第27連隊の伝統を引き継ぐ第27普通科連隊だが、防衛省公式サイトには大東亜戦争前後の状況から今日までの動向のみの記載に留まるものの、歴史上その名をもっとも有名にしたのは日露戦争であった。

日露戦争において歩兵第27連隊は、乃木希典陸軍大将(第3軍)の隷下にあり、あの有名な旅順要塞攻防戦に参加する。

60000人余りの参加将兵のうち15000人が戦死した悪夢のような要塞攻防戦であり、なおかつこの要塞が落ちなければ日本海軍の壊滅は必至という状況の局地戦。

それはすなわち中国大陸と日本本土との兵站が寸断され、日本陸軍も併せて全滅が確実となる、我が国の生命線を握ることとなった重要な要塞戦であったが、近代化の緒についばかりの日本陸軍には攻城のノウハウが決定的に不足していた。

工兵の育成が遅れ正面戦を仕掛けざるを得なかったこと、攻城のオプションを持ち合わせていなかったことが客観的な苦戦の原因と言ってよいが、中には司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」を引用し、そもそも乃木希典が無能であったことを苦戦の原因と評価する声は未だに根強い。

しかしながら、日露戦争よりも後の時代に戦われた欧州の第1次世界大戦において、要塞を攻撃する側がどれほどの損害を蒙り、また守り手側がどれほど有利であったのかは歴史的に証明されており、このような評価は的はずれである。

それはひとえに、機関砲(機関銃)という新しい武器が登場したことを機とするためであり、まだ歩兵が携行し戦う武器といえば単発式の銃であったところで、守備側は連射力に優れた機関砲で待ち構えるのだから、どちらが有利なのか、火を見るより明らかだ。

その機関砲が初めて本格的に登場した、列強同士の戦争となった日露戦争において、旅順要塞の攻撃側である我が軍に甚大な被害が発生したのは当然である。

攻城戦のノウハウも確立されていなかったのは当然であるといえるだろう。

なお余談だが、これら機関砲を装備し要塞や軍事拠点に立て籠もる敵を撃破するために発明されたのがtank、すなわち戦車であり、英国海軍がその最初の発明者となったが、当初はその機動力ではなく、防御力を活かした敵陣突破用の兵器であった。

話を元に戻す。

そしてこのような苛烈な戦闘において、あの有名な203高地攻防戦において最初に山頂の西南部を奪取し、僅か数十名の将兵でこれを防備。

山頂を奪還しに来るロシア兵と熾烈な戦闘を繰り広げた部隊があった。

それが歩兵第27連隊だ。

1904年12月4日早朝、多くの犠牲を払いながら進軍を進めた27連隊は山頂の一角を奪取するものの、背後からは我が軍の砲兵による援護射撃が周囲に激しく降り注ぎ、正面からは突撃を繰り返すロシア兵からの銃弾が飛び交う。

そのような中、山肌に張り付き応援を待つものの、後から来る部隊は山頂に所在する他のロシア兵による攻撃でことごとく壊滅。

1昼夜をこの僅かな手勢で守り抜くが、翌12月5日になり漸く、上級部隊である第7師団主力が27連隊の応援に駆けつけ、程なくして第1師団の一部も続々と歩兵27連隊の下に駆けつけることに成功し、かくして203高地は我が軍の制圧下に入ることとなった。

このようにして1904年12月5日、ロシア軍は203高地から完全に撤退し、我軍はその当日中から203高地に砲兵陣地を設置。

5日~7日にかけての砲撃で旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を全滅させることに成功し、第3軍は大勝を治めることとなった。

この際に最初に203高地山頂一角を奪取し、僅かな手勢で守りきった歩兵第27連隊の名誉は輝かしいものとなり、その将兵は国内で英雄ともてはやされることとなったが、その栄光を受け継ぎ、今も釧路の地で同連隊の栄誉と伝統を受け継ぐのが、第27普通科連隊だ。

極寒の北海道の地において育てられた精強な肉体と精神は現在の連隊にも受け継がれており、その名誉ある連隊を2017年9月現在、預かっているのが黒岩である。

我が国の平和と安全に対する責務はもとより、歴史と伝統あるこの部隊を受け継ぎ、さらに精強な部隊へと発展させる為、黒岩が歴史から受け継いだ任務は極めて重い。

さて、そのような歴史と伝統ある精強な部隊を預かる黒岩だが、そのキャリアは北部方面隊と西部方面隊を中心とした指揮経験が多く、2017年現在の安全保障環境に照らし、高級幹部にとって極めて重要な知見を備えている指揮官であるといえるだろう。

第8師団(北熊本)、第16普通科連隊(大村:長崎)、西部方面総監部総務部(健軍:熊本)、第2師団司令部(旭川)と、陸自エリートの多くが歩む北部方面隊に加え、2017年9月現在の新しい最前線である西部方面隊勤務のキャリアも多く、極めて頼もしい経歴を歩み、そして第27普通科連隊長(釧路)に着任した。

なお、黒岩は第35期の高級幹部なので、35期といえば2016年夏の人事で、スーパーエリートたちが陸将補に昇り始めた年次だ。

すなわち、

井戸川一友(第35期)・沖縄地方協力本部長
上田和幹(第35期)・北部方面総監部幕僚副長
遠藤充(第35期)・東部方面総監部幕僚副長
戒田重雄(第35期)・西部方面総監部幕僚副長
坂本雄一(第35期)・中部方面総監部幕僚副長

この5名が35期1番乗りの陸将補であって、2016年の昇進であったが、いずれも1選抜で1佐に昇り、6~7年で将補に昇った化け物たちである。

陸自では毎年、こんな異常なペースで出世を果すスーパーエリートが3~5名ほどいるが、ちょっと別世界に生きる人たちなので、比較対象として考えるべきではないだろう。

現場を任され能力を発揮する高級幹部もいれば、組織づくりに長け、将補としてあるいは将として陸自のトップに昇り活躍をするものもおり、まさに適材適所だ。

現場指揮官として輝かしい実績を残し続ける黒岩のような高級幹部にはぜひ、さらに我が国の曹士たちを精強な部隊へと育てるべく、尽力をしてもらえることを期待したい。

(とはいえ、ここからスピード出世する可能性ももちろんあるわけだが・・・)

35期といえば、まさにこの先10年、我が国の安全保障を担う頭脳であり、指揮官となる世代だ。

黒岩を始め、この世代の異動と活躍には特に注目して、その動向を追っていきたい。

◆黒岩太一郎(陸上自衛隊) 主要経歴

平成
3年3月 防衛大学校卒業、幹部候補生学校
3年9月 第1普通科連隊(練馬)
11年3月 防衛大学校訓練部訓練課(横須賀)
14年3月 富士学校普通科部付(富士)
15年3月 第41普通科連隊中隊長(別府)
17年3月 第8師団司令部第1部人事1班長(北熊本)
19年3月 陸上幕僚監部監理部総務課企画班(市ヶ谷)
22年3月 第16普通科連隊第3科長(大村)
25年3月 西部方面総監部総務部総務課総務班長(健軍)
27年4月 第2師団司令部第4部長(旭川)
28年8月 第27普通科連隊長兼ねて釧路駐屯地司令(釧路)

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省陸上自衛隊 第27普通科連隊公式Webサイト(顔写真)

http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/5d/01_unit/27i/00_27i.html

防衛省陸上自衛隊 第2師団公式Webサイト(訓練写真)

http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/kunnrenn/rireki/25ctkenn/newpage1.html

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