糟井裕之(かすい・ひろゆき)|第29期・海上自衛隊

糟井裕之は昭和38年1月生まれ、滋賀県出身の海上自衛官。

防衛大学第29期の卒業で幹候36期、卒業以来一貫して水上艦艇畑を歩んでいる。

平成28年12月(2016年12月) 第38代護衛艦隊司令官・海将

前職は海上幕僚監部人事教育部長であった。

このようなサイトをしていると、自衛隊の高級幹部について色々と気がつくことがあるのだが、糟井についても、一つ特記したいことがある。

それは、陸海空自衛隊の将官として糟井は、非常に珍しい存在であることだ。

先に、紹介したこちらのページ、

【高級幹部】陸上自衛隊 陸将補名簿氏名一覧|2017年11月版

で詳述しているのだが、陸上自衛隊には120名もの陸将と陸将補がいるのに、滋賀県出身の将官は1名たりともいない。

(120名のうち8名は出身地不明。2017年11月現在)

福岡県出身者が14名もいるのと比べ、対照的というレベルではない。

戦国以来、蒲生氏郷、浅井長政、羽柴秀吉、織田信長、明智光秀、井伊直政・・・

など、歴史に名を残す有力大名が本拠地を構えた、武家にとっての要衝であり続けた土地柄を考えると、意外なほどだ。

海将補と空将補はまだ統計を取っていないので何とも言えないが、これまでのところ、滋賀県出身の将官と言うものをほとんどレポートした覚えがない。

つまり、自衛隊の中では”冷遇”されている滋賀県出身で、海無し県で海にも水軍にも縁もゆかりもない土地柄であるにも関わらず、糟井は海将に昇り、護衛艦を束ねる総責任者、護衛艦隊司令官に昇り詰めてしまった。

陸将ならまだわかるが、このあたりもまた人事の面白さだ。

その糟井のキャリアを少し紐解いてみたい。

海上自衛隊に入隊したのが昭和60年3月の第29期。

1等海佐に昇ったのが平成16年1月で、海将補に昇ったのが平成22年7月なので、共に同期1選抜(1番乗り)でのスピード昇任だ。

これ以上はない早さでの、人事制度の実運用上、上限での早さで海将補まで駆け抜けたことになる。

その後、海将に昇ったのが平成28年12月であったので、こちらは同期最速に5ヶ月譲ったことになる。

なお、2017年11月現在で、糟井とともに切磋琢磨する海将のポストにある同期は以下の通りだ。

渡邊剛次郎(第29期)・教育航空集団司令官(2016年7月)

糟井裕之(第29期)・護衛艦隊司令官(2016年12月)

舩木洋(第29期相当)・防衛装備庁長官官房装備官(2015年3月)

杉本孝幸(第29期)・航空集団司令官(2017年8月)

※肩書はいずれも2017年11月現在。末尾の数字は海将昇任時期。

※舩木については、横浜国大大学院卒業で幹候36期(29期相当)の入隊ではあるが、2年年長者であり、昇任査定は第27期相当扱いとなっている。

このようにしてみると、29期組の海上幕僚長争いは渡邊と糟井の両名に絞られたと見て良さそうだ。

護衛艦隊司令官経験者からは、もはや自衛隊のラスボス扱いである河野克俊(第21期)・統合幕僚長を始めとして、数多くの海上幕僚長が誕生してきた。

海無し県である滋賀から、まさかの海上幕僚長誕生の期待が高まるところだ。

その糟井のキャリアを見ると、これからの海上自衛隊を背負って立つトップリーダーとしてふさわしい、極めて充実した経歴になっていることがよく分かるものになっている。

防衛大学校卒業以来、一貫して水上艦艇の現場を指揮。

護衛艦ちくまの艦長から第7護衛隊司令、第4護衛隊司令、第1護衛隊群司令、護衛艦隊司令官と、水上艦艇の指揮官として順調なキャリアアップを重ねた。

その間、海幕で要職を歴任したことはもちろん、大湊地方総監部幕僚長など地方隊での指揮監督歴も十分であり、後職ではいずれかの地方総監か、あるいは海上幕僚副長(統合幕僚副長)に昇るであろう。

また、海自のトップリーダーに求められる海外経験も十分であり、第1護衛隊群を務めていた頃には、史上初となる日印合同軍事演習の統裁官を務めるなど、軍人外交の現場経験も抜かりない。

またこのような、中国人民解放軍を牽制する訓練統裁官だけでなく、2011年9月には、日露捜索・救難共同訓練においても訓練統制官を担い、若狭湾にロシア海軍太平洋艦隊を迎えている。

まさに海上自衛隊を代表する顔であり、諸外国にも太い人脈を持つ糟井だ。

29期組のエースであり、次の次の海上幕僚長候補筆頭であると言って良いだろう。

陸と空では同郷の士が苦戦している中、滋賀県民の意地を見せ、さらに要職に駆け上がることを期待して楽しみに注目したい。

本記事は当初2017年7月12日に公開していたが、加筆修正が重なったので2017年11月19日に整理し、改めて公開した。

なお、ここから下の部分は2017年7月に公開した当時のものをそのまま残している。

東日本大震災の発生時、第1護衛隊群司令であった糟井は横須賀にいたが、震災発生時は不規則な勤務の合間であったのだろう、横浜のスーパー銭湯で汗を流している最中だった。

想像を絶する大きな揺れに慌てて車に飛び乗り司令部に戻ろうとするも、道路は既に大渋滞。

なんとか司令部にたどり着くも、想定を超えた現実に驚き、直ちに災派(災害派遣)に取り掛かる。

迅速な対応と災害派遣の準備、そして出動を下令する糟井。

慌ただしく命令を捌いていた糟井であったが、この時、中央から重要な命令が下りてきた。

それは、この国家的非常事態に際し、「トモダチ作戦」の日本側責任者を務めよというもの。

命令を受けると糟井は直ちに、モダチ作戦を統括する米空母「ロナルド・レーガン」と密に連絡を取り合う。

そして、米軍の支援が必要な場所、米軍の支援でしか救出に行けない場所にリソースの振り分けを行い、また自らも隷下の第1護衛隊軍を率い被災地入り。

「救助を優先しろ。多少の被害があってもいいから一人でも多くの人を救え」と下令し、まさに有事の戦闘に立ち指揮を執った。

護衛艦で近づけない瓦礫で一杯になった海岸にはLCU(小型の汎用上陸艇)で接近して人命救助にあたるなど、まさに「多少の被害は気にするな」を地で行く、鬼気迫る救出活動である。

この時の糟井の救助にかける意気込みと熱意は凄まじいものがあり、自衛艦隊司令部から危険すぎるとしてストップがかけられるほどであった。

しかしこの時、糟井だけでなく隷下の幹部曹士も熱い心と使命感で救助にあたっており、「皆が行きたがっていた」と後に語るなど、有事に際しての士気の高さを存分に見せてくれた出来事となった。

震災という悲惨な災害であったが、その舞台裏で糟井はギリギリの救助活動を行い、そして米海軍とも密接に連携を取りながら、深くて強い友情をより強固なものにする活躍を見せてくれたこともまた、特筆に値するだろう。

なおこの震災では一つの話がある。

当時東北方面総監であり、自衛隊史上初めて陸海空を統括するJTF-TH(Joint Task Force – Tohoku)司令官に就任し10万人の自衛官を率いた君塚栄治は、当時の北沢俊美防衛大臣から

「死体を発見した場合、生きている人と同じように丁寧に扱って下さい」

と要請されたが、これを隷下指揮官たちに伝える際、

「死体を発見した場合は、自分の身内と思って扱え」

と言い換えて下令した。

その方が全ての隊員に対し、より直感的に自分のなすべきことが伝わると考えたとのことだが、さすがにこの時の仕事ぶりが認められ、東北方面総監から初めて陸上幕僚長に昇った男だ。

能力だけでなく用兵の機微まで心得ており、またその命令は現実的であり、なおかつ優しさに溢れている。

君塚は陸上幕僚長を退官したわずか2年後、2015年に63歳の若さで肺がんにより逝去したが、君塚にはもっともっと、日本のために様々な形で力を尽くしてほしかった。

痛恨の極みであり、残念でならない。

◆糟井裕之(海上自衛隊) 主要経歴

昭和
60年3月 海上自衛隊入隊(第29期)

平成
8年1月 3等海佐
11年7月 2等海佐
13年8月 護衛艦ちくま艦長
14年8月 海上幕僚監部装備体系課
16年1月 1等海佐
17年8月 海上幕僚監部防衛課業務計画班長兼幹部学校
19年10月 第7護衛隊司令
20年3月 第4護衛隊司令
20年12月 海上幕僚監部補任課長
22年7月 海将補
22年8月 第1護衛隊群司令
24年7月 大湊地方総監部幕僚長
25年8月 護衛艦隊司令部幕僚長
26年8月 海上幕僚監部人事教育部長
28年12月 護衛艦隊司令官 海将

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省海上自衛隊 護衛艦隊公式Webサイト(着任式)

http://www.mod.go.jp/msdf/efhq/introduce/cfcf_koutai.html

防衛省海上自衛隊 ニュース・活動内容公式Webサイト(東日本震災)

http://www.mod.go.jp/msdf/formal/operation/earthquake.html

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