飯盛進(いさかい・すすむ)は昭和37年11月生まれ、長崎県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第29期の卒業で幹候66期、出身職種は高射特科だ。
平成30年8月(2018年8月) 防衛研究所副所長・陸将補のポストを最後に退役となった。
前職は北部方面総監部幕僚長であった。
(画像提供:陸上自衛隊第2師団公式Webサイト)
【以下、2018年8月6日加筆】
第7高射特科連隊長や第1高射特科団長を務めた、高射のエキスパートであった飯盛が2018年8月、退役となった。
1佐昇任以降は、中央と北方を往復し要職を歴任。
最後のポストは、防衛研究所副所長での退官ということになった。
2018年現在は、高射特科の役割がかつて無いほどに高まっている。
この補職は、その高射のエキスパートの視点を生かしての戦術を考える機会を自衛隊に提供するという意味合いを持つものであったのだろう。
1年半に渡るその大役も終わり、30年以上に渡る長かった自衛官生活に幕を閉じた。
長い間、本当にお疲れ様でした。
そして、本当にありがとうございました。
飯盛陸将補の第二の人生も充実した素晴らしいものとなりますことを、心からお祈り申し上げます。
【以下、2017年10月28日までの過去記事】
2017年10月現在、飯盛が補職されているのは防衛研究所副所長。
このポストは研究が目的の機関というよりも、過去に戦われた戦史や我が国が経験した組織的失敗、あるいは戦略・戦術・戦闘のあらゆるレベルにおける失敗や成功から様々な教訓を抽出し、もって現在の戦略や戦術に援用していくことを目的とする組織だ。
そのため我が国の防衛政策に与える影響も大きく、その副所長ポストには将補(一)が充てられ、飯盛もまた着任時で将補6年目であり、日本政府や自衛隊の高級幹部に大きな思想的影響を与える職責を担っている。
ある意味においてこのような試みは、東京都の小池百合子都知事が愛読書として公表してからブームが再燃したと言われている戦史研究の名著、「失敗の本質」のような著作で、その研究の一端を窺い知ることが出来る。
この本は、過去の戦術や戦闘から戦いの本質を抽出し、その失敗体験を体系化しようと試みた極めて意義深い1冊で、軍事関係者のみならずビジネスパーソンにも広く支持された名著だ。
なお「失敗の本質」の出版そのものには、防衛研究所が直接関わっているということはなく、防衛大学校の教授を始めとした軍事専門家の共著になっている。
防衛研究所では、資料閲覧室など誰でも利用できるよう一般開放しており、このような意義深い著作や研究にも貢献する組織となっているが、官民を区別せず、有意な歴史認識の形成にも一役買っているのがその特徴だ。
(画像提供:陸上自衛隊高射学校公式Webサイト)
このような、我が国の歴史観や幹部教育にも大きな影響を与える防衛研究所の副所長を務める飯盛だが、その出身職種は高射特科だ。
連隊長経験は、機甲師団として知られる第7師団隷下の第7高射特科連隊。
予算にも人員にも恵まれ、またその期待に応えるかのように非常に厳しい訓練を行うことで知られる北部方面隊隷下においても、最強と謳われる部隊の一つである。
高射特科を専門とする高級幹部にとって、その連隊長職は非常な栄誉と言えるポストだ。
なお陸自高射特科の果たすべき役割だが、低軌道で飛来する敵の弾道ミサイルや空対地ミサイルなどを迎撃する役割を担うことになっており、海上自衛隊のイージス艦や航空自衛隊の高射部隊が担うBMD(弾道ミサイル防衛)の一部を請け負う能力はない。
BMD構想は、北朝鮮などから発射された高々度の弾道で飛来するミサイルから我が国を防衛するものであり、海自と空自がこれに対応する。
2017年10月現在で、将来的に陸上配備型イージスシステム導入構想があり、或いはそうなれば陸自の高射特科にもこの機能が付与されることになるが、少なくとも現在の役割は上記のようなものに限られる。
然しながらこの役割は、我が国の南西方面における島嶼防衛で極めて重要な役割を担うことになる。
具体的には、石垣島と宮古島に新設される陸自の新駐屯地であり、そこに配備される地対艦ミサイル連隊との連携だ。
これら島嶼部への地対艦ミサイル連隊の配備は、南西方面における制海権を塗り替えるほどに大きなインパクトを持つ戦力配備となる。
しかしそうなれば、中国人民解放軍はこれら部隊を攻撃するための艦載ミサイルや空対地ミサイルなど、あらゆる対地ミサイルを開発・導入してこれら部隊を無力化しようとするだろう。
その試みを阻止できる部隊こそが陸自の高射特科であり、高射特科が100%の働きをすれば、もはや地対艦ミサイル連隊を無力化するには上陸部隊による直接打撃しか方法がなくなることになり、戦術上のオプションをどんどん狭めていくことができる。
戦争の事前段階は、お互いの自由度の奪い合いだ。
多くのオプションを手に入れ、自由度を多く手に入れたほうがより多彩な戦術オプション、戦闘オプションを行使することができ、自由度を奪われたほうは、「これしかない」という方法に掛けるしかなくなる。
そしてこのような戦闘は、ほぼ例外なく敗れる。
戦前の日本軍はまさにこの自由度を奪われ、行動を読まれ戦闘オプションを封じられたために、各地で撃破されたと言って良い。
その一方で、開戦当初の日本軍曹士の精強さはちょっと常識外れであり、戦略の失敗を戦術で覆し、戦術の失敗を戦闘で覆すような、常識では考えられない強さを見せたために、上層部はさらに戦略を誤っていくことになるが、それは筋が外れるので別稿に譲る。
要は、陸自の高射特科は、野戦特科の地対艦ミサイル連隊とともに島嶼部に配置されることで、南西海域における抑止力が格段に向上する大事なユニットであるということだ。
中国人民解放軍の自由度を大きく制約し、我が国の自由度を広げる上で極めて大きな役割を担う。
そのエキスパートである飯盛が防衛研究所に補職されたということは、陸軍高射部隊の歴史に目を向け、また陸自の高射特科の切り口から戦術を考える機会を自衛隊に提供するという意味合いを持つ。
どのような職域も、我が国の防衛に不必要なものなど存在しない。
しかし敢えて今、その役割を広げ、さらに多方面で活躍が期待される兵科と言えば、その一つに高射特科が数えられることは間違いないだろう。
そしてその高射特科出身で、最高幹部である飯盛だ。
その活躍には、注目して今後も追っていきたい。
◆飯盛進(陸上自衛隊) 主要経歴
昭和
60年3月 陸上自衛隊入隊(第29期)
平成
8年1月 3等陸佐
11年7月 2等陸佐
16年1月 1等陸佐
16年8月 幹部学校付
17年8月 陸上幕僚監部調査運用室
18年3月 陸上幕僚監部情報課地域情報班長
19年12月 幹部学校教官
20年3月 第7高射特科連隊長
21年7月 陸上幕僚監部厚生課長
23年8月 第1高射特科団長 陸将補
25年3月 高射学校長
27年3月 東北方面総監部幕僚副長
27年12月 北部方面総監部幕僚長
29年3月 防衛研究所副所長
30年8月 防衛研究所副所長のポストを最後に勇退
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