三上大二(みかみ・だいじ)|第33期・海上自衛隊

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三上大二は昭和40年9月21日生まれ、広島県出身(本籍地)の海上自衛官。

防衛大学校第33期の卒業(応用物理学)で幹候40期。

 

平成28年12月(2016年12月) 余市防備隊司令・1等海佐

前職は海上自衛隊幹部学校企画課国際計画班長であった。

なお、余市防備隊司令としての指導方針は以下の通り。

 

【指導方針】「チームワークと自己実現」

 

ほとんどの国民には馴染みがない基地であり、聞いたこともないのではないだろうか。

海上自衛隊最北の艦艇部隊を有するのがこの部隊、余市防備隊であり、そして余市防備隊は、北海道の余市町に所在している。

ウイスキーの街という以外にピンとこないかもしれないが、余市は小樽の西に位置する風光明媚な港町だ。

第1ミサイル艇隊というかなり変わった実力部隊を擁し、日々我が国の平和と安全に貢献している。

 

では三上が率いるそのその第1ミサイル艇と余市防備隊とは、一体どんな部隊なのだろうか。

 

突然だが、写真は上から第1ミサイル艇隊の若き司令で2等海佐の五十嵐晋太郎。

中央がミサイル艇わかたか艇長で3等海佐の空野順典。

一番下がミサイル艇くまたか艇長で3等海佐の荒木慎一である。

 

ミサイル艇は基準排水量がわずか200トンの極めて小さな船であり、文字通り艦ではなく艇だ。

汎用護衛艦(DD)が大体4500トン前後ということから比べると、どれほど小さい船なのか、おわかり頂けるだろう。

 

ただしこのミサイル艇、速さが尋常ではない。

通常、海上自衛隊の運用する護衛艦は30ノット+αで戦速が統一されているのだが、このミサイル艇わかたかとくまたかの戦速は44ノットであり、過去の歴史を含めても自衛艦艇最速クラスである。

小さな艇に必要最小限の武装を積み、我が国の領海付近で不審な動きをする敵性国家の船を見かけたら、驚くほどの早さで急行し肉薄、場合によっては実力行使をすることを想定し、運用されている艇だ。

 

まるで短刀一本を口に咥え、音もなく快速で敵に忍び寄り仕事を果す、忍者のような凄い艇である。

実際には、1999年に発生した能登半島不審船事件のように、極めて高速に改造された北朝鮮の工作船などを追跡・補足するような任務が想定されているが、能登半島不審船事件では、その工作船の余りの速さ故に、海上自衛隊の艦艇では十分に対処できなかった苦い教訓があった。

 

これらわかたかやくまたかははやぶさ型ミサイル艇に分類されているが、その就役が始まったのは2002年からだ。

現在では第1ミサイル艇が余市防備隊に、第2ミサイル艇が舞鶴に、第3ミサイル艇隊が佐世保に所在しており、我が国近海における不審船の活動を、どのようなことがあっても逃すことがない覚悟で、日夜任務にあたっている。

 

小さいからと言って舐めているととんでもないことになる、海の仕事師たちがそこにはいる。

三上はそんな精鋭部隊を率いる、こちらもまた海の写真が良く似合う、ベテランの司令である。

 

 

なお突然だが、小さな艦艇を率いて大仕事を成し遂げた男といえば、どうしても思い出されるのがこの男、鈴木貫太郎だ。

ミサイル艇の職人というキーワードから強く連想される海軍提督なので、併せて紹介しておきたい。

 

日本最初の総理大臣や現職の総理大臣は答えられても、ポツダム宣言を受け入れ、我が国を終戦に導いた総理大臣の名前を答えられる一般国民の数は極めて少ない。

あるいは史上最高齢の総理大臣ということで鈴木の名を知るものはいても、鈴木がどういう男であり、我が国の栄光と挫折の真っ只中でその人生を辿ったのかを知るものなど、一部の歴史ヲタくらいであろう。

 

海上自衛隊の幹部であれば誰でも知っている提督だが、鈴木貫太郎のその人生は、一つの大河ドラマになってもおかしくないほど、我が国の近代史において中枢に在り続けた人物だ。

 

鈴木貫太郎が生まれたのは、大政奉還の翌年である1868年。

大阪府の生まれで、1887年に海軍兵学校を卒業すると、日清・日露戦争にも従軍する。

 

その貫太郎が名を挙げたのは日露戦争における日本海海戦。

当時、貫太郎が補職されていたのは第5駆逐隊司令、その後第4駆逐隊司令に異動になるが、当時の駆逐艦と言えば排水量わずか300トンクラスである。

つまり、海上自衛隊で運用するミサイル艇にくらべ一回り大きいという艦艇で外洋に出て、さらに戦闘を行おうと言うわけだ。

まさに命知らずの海の職人たちにしか使いこなせない艦種であったが、当時の駆逐艦もまた、極めて高速で機動することができ、艦隊運用上欠かせない存在であった。

 

貫太郎はこの駆逐隊司令に就任すると、駆逐艦の快速を生かし敵に一気に肉薄、その至近距離から必殺の魚雷を撃ち込んで確実にこれを仕留める戦法を確立し、これを駆逐艦の戦い方の雛形として、隷下部隊に対し徹底的な訓練を施した。

敵の巨大な艦船に対し、小さな300トンクラスの駆逐艦で肉薄しろというのである。

確実に外さない距離まで近づいて魚雷を撃つのだから、率直に言って自殺行為ともいえる戦法だ。

実際に貫太郎にはおそらく、300トンクラスの艦で1万トンを越える戦艦を仕留められれば、相打ちでも儲けであるという考え方もあったのではないだろうか。

軍事合理性とは言え、凄まじい司令であり、命知らずの男たちであった。

 

そして貫太郎のこの戦法は、日本海海戦で驚異的な成果を挙げることになる。

この海戦においては、昼間の砲撃戦で、主力艦隊同士としての決着は連合艦隊の圧勝という形で一旦幕を閉じたものの、連合艦隊は多くの敗残艦を取り逃がしていた。

連合艦隊に要求された任務は、ロシアバルティック艦隊の完全な壊滅であり、その要件を満たさすこと無く数隻の主力艦でも、ウラジオストクに逃げ込まれたら、その局地戦は我が国の敗北であると言ってもよいほどの脅威であった。

 

その時、高速を活かし戦闘海域を駆け巡り、敵の敗走艦を探し回っていたのが誰あろう貫太郎であった。

貫太郎はその快速を生かし、次々と敗走するロシアの主力艦を補足し、目と鼻の先にまで肉薄すると魚雷を発射しこれを撃沈。

中には敗走部隊の旗艦あるクニャージ・スヴォーロフまで含まれており、こうして敗走するロシアの主力艦はことごとく貫太郎によって撃破され、日本海海戦は我が国の完全勝利という形で幕を閉じた。

 

なおこの際、貫太郎の武勲があまりにもすごかったために、連合艦隊の参謀は、

「少し別の司令に手柄をわけてやってくれないか」

と持ちかけた逸話も残っているほどであり、それほどまでに貫太郎は、この世界史に残る大いくさで、大活躍の働きを見せた。

 

ある意味で、現在のミサイル艇に期待される役割と似ているような気がしないだろうか。

最低限の武装で一気に敵との間合いを詰め、場合によっては実力行使を行う海の職人集団であり、快速を誇る部隊である。

おそらく三上以下の主要幹部や曹士たちも、鈴木貫太郎と同様、快速部隊である駆逐艦隊(ミサイル艇隊)の高い誇りと使命感を持ち、任務に励んでくれていることであろう。

ぜひ近くの港でミサイル艇の一般公開行事があれば、そんな歴史を思い出しながら艇内を見学して欲しい。

そして幹部曹士の海上自衛官を見かけたら、

「いつも大変な任務、お疲れ様です」

とひと声かけてもらえれば幸いだ。

自衛官にとっては、その一言が何よりの元気のもとになるのだから。

 

なお余談ついでだが、その後貫太郎は2.26事件で襲撃を受け瀕死の重傷を負うものの一命をとりとめ回復。

そして昭和天皇直々の強い要望により、昭和20年4月、今に至るも史上最高齢である77歳で、第42代内閣総理大臣に就任した。

 

もちろん、戦況はもはやどうしようもない時期だ。

敗戦は確実であり、どのようにして戦争を終わらせるのか、ということのみに奔走する内閣であったものの、軍部の暴走を抑えながら終戦工作を行うのは並大抵のことではない。

このあたりの話を扱った日本映画の傑作、「日本のいちばん長い日」は一見に値する作品なので、もしまだ見たことがなければぜひ一度、みて欲しい。

 

そして、日清・日露戦争で世界の大国を破り続ける活躍を見せ、我が国を世界の列強に押し上げた立役者であった海軍大将・鈴木貫太郎は、自らの最後の使命としてポツダム宣言を受け入れ、終戦工作に成功する。

まさに我が国の栄光と挫折を一身に体現したような人生であったが、貫太郎は全ての敗戦処理にも奔走を続けた結果の昭和23年。

この世でやるべきことの全てをやり終えたかのように、80歳の生涯を閉じた。

ポツダム宣言を受け入れ、終戦を成し遂げたわずか2年8ヶ月後であった。

 

その最後の時に、貫太郎の脳裏にはどのような思いが駆け巡ったのだろうか。

栄光の真っ只中にあった日露戦争の頃なのか、それとも敗戦を受け入れるためだけに、昭和天皇自らの強い要望で総理大臣に昇った時のことなのか。

 

今となっては知る由もないが、海上自衛隊だけでなく、広く国民一般に、その生き様と生涯を知ってほしい海軍提督の一人である。

 

◆三上大二(海上自衛隊) 主要経歴

平成
元年3月 海上自衛隊入隊(第33期)
17年3月 おおよど艦長
19年3月 海上自衛隊第1術科学校
21年9月 補本装備計画部企画課企画班長
23年8月 大監防衛部第3幕僚室長兼第5幕僚室長
25年8月 中国四国防衛局防衛補佐官
26年6月 海上自衛隊第1術科学校教育第3部長
27年12月 幹校企画課国際計画班長
28年12月 余市防備隊司令

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省及び国立国会図書館のルールに従い、防衛省・国立国会図書館のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省海上自衛隊 余市防備隊公式Webサイト(司令以下顔写真)

http://www.mod.go.jp/msdf/oominato/butai/yoichi/sirei.html

http://www.mod.go.jp/msdf/oominato/butai/yoichi/1gpd.html

国立国会図書館 「近代日本人の肖像」公式Webサイト(鈴木貫太郎顔写真)

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/113.html

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