【退役】手塚信一(防衛装備庁長官官房装備官)|第27期・陸上自衛隊

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手塚信一(てづか・しんいち)は昭和35年10月生まれ、埼玉県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第27期の卒業で幹候64期、東京工業大学大学院を卒業し工学博士号も持つ陸将だ。

 

平成30年8月(2018年8月) 防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当)・陸将のポストを最後に退役となった。

前職は陸上自衛隊幹部学校副校長であった。


(画像提供:陸上自衛隊北部方面隊公式Webサイト

【以下、2018年8月2日加筆】

2017年7月の、同期である山崎幸二(第27期)の陸上幕僚長着任後も1年間、陸将として防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当)の要職にあり続けた手塚である。

35年もの長きに渡った陸上自衛官生活に、2018年8月で終わりを告げて自衛隊を去った。

 

最後の最後、2017年春の将官人事で陸将に昇任した時点では、おそらくこれが最後の補職になるであろうことは間違いのないところであった。

それは、第35代陸幕長であった岡部俊哉(第25期)の、事実上の更迭劇が無くてもおそらく変わらなかっただろう。

つまり最後の異動で、手塚をこのまま将補で終わらせまいとする中央の意向が働き、手塚は陸将に昇任の上で、この要職を任されたということだ。

それだけでも、手塚が積み上げてきた自衛隊への数々の功績、我が国の平和と安全に対する多大なる貢献がどれ程のものであったのか。

推し量る材料として、余りあるものではないだろうか。

 

第25普通科連隊長(遠軽)や第2師団副師団長(旭川)など、陸自の主力が集中する北部方面隊で多く指揮を執り、また中央では、技術系の幹部としても活躍をした最高幹部だった。

非常にタフな仕事ぶりであり、退役までの間、おそらく一息つく間もないほどの忙しさであっただろう。

この記事をポストしているのは、その退役からわずか2日後のことだが、今もまだ任務のことが頭から離れずにそわそわしているのではないだろうか。

 

本当に長い間、おつかれさまでした。

そして本当に、ありがとうございました。

まずはごゆっくりとお過ごしになって、積年のお疲れをお癒やし下さい。

手塚陸将の第二の人生も素晴らしいものとなりますことを、心からお祈り申し上げております。

 

【以下、2017年10月12日までの過去記事】

2017年10月現在、手塚が補職されているのは防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当)だが、着任と併せての陸将昇進となった。

防衛大学校第27期組は既に山崎幸二(第27期)が陸上幕僚長に着任しており、頂点のポストを目指す出世レースという意味では既に終了している。

本来であれば、同期の陸幕長就任で同期組は早期退職勧奨を受けるのが慣例だが、手塚が陸将に昇進し防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当)に着任したのが2017年3月。

山崎が陸幕長に着任したのが2017年8月であったことも有り、また本来予定されていなかった人事であったことも併せて、27期組の将官から何名かが、現行ポストに留任している状態となっている。

 

手塚もその一人だが、27期組からは間違いなく、最後の将官昇任となるであろう。

そして恐らく、2018年3月を目処に、長年親しんだ陸上自衛隊の制服を脱ぐことになるのではないだろうか。

 

その手塚が陸上自衛隊に入隊したのは昭和58年3月。

1等陸佐に昇ったのが平成14年1月なので、陸幕長である山崎と同時期の、27期組1選抜(1番乗り)の1等陸佐昇進であり、スーパーエリートの出世街道を駆け抜けてきた。

その後、陸将補に昇ったのが23年12月なので、1等陸佐には10年近くいた事になり、出世競争という意味ではここで置いて行かれた形になる。

 

然しながら、その分、1等陸佐としての現場指揮官経験が非常に厚く、また陸幕の研究開発職も多く経験し、陸将補・陸将時代に責任者となるポストについて、多くの知見を身に着けた上で将官に昇った。

知識に上滑りしない、確かな経験に基づいた責任者就任であった。

 


(画像提供:陸上自衛隊第2師団公式Webサイト

さて、早い段階から研究開発職のエキスパートとして期待されていた手塚だが、その一方で陸幕や中央勤務ばかりという経歴には全くなっていない。

ページ冒頭の集合写真はワシントン州郊外、ヤキマトレーニングセンターで開催された「平成24年度米国における米陸軍との実動訓練」の模様だが、この訓練で手塚は、陸将補として全般統制官の任にあたっている。

 

また上の災派(災害派遣)写真は平成18年、第25普通科連隊長時代に出動した北海道・サロマ湖周辺の堤防決壊時における救助活動を写した一枚だ。

 

民間企業であれば、研究開発を嘱望されている高級幹部であれば本社や研究所、すなわち陸幕や中央で勤務し続けそうなものだが、このあたりの人事はさすがに陸上自衛隊と言ったところであろうか。

第25普通科連隊は北海道・遠軽に所在する一線部隊であり、冬季戦技に長けた精鋭集団である。

冬のレンジャーとも言われる冬季戦技競技会では何度も優秀な成績をおさめている普通科連隊であり、冬の寒さと雪の多さは普通科連隊の所在する駐屯地の中でも1、2を争うほどだ。

 

過酷な環境で、陸上自衛隊の中でも最精鋭と呼ばれる部隊の一つである25普連を指揮し、なおかつ陸将補に昇進後はアメリカ軍との共同訓練の統裁官を務め、通常の普通科幹部のエリートと全く変わらないポストを歴任していることになる。

そしてそれらポストの合間に研究開発職の現場とも往復するキャリアであり、人使いが荒いというレベルではない激しさだ。

こんな要求を受け続け、なおかつ結果を出し続け陸将に昇るというのは、精神的にも肉体的にもタフでなければ務まらない仕事であったことは、想像に難くない。

 

更に現場を離れたかと思えば、陸上自衛隊開発実験団長などを経て、2015年に新設されたばかりの防衛装備庁に赴き、陸上自衛隊の新装備の調達やその是非、また研究開発を行う責任者に就任している。

まさに気が休まる時がないといったところだが、防衛装備庁は、中谷元・元防衛大臣がその在任中に立ち上げた組織で、元陸上自衛隊幹部として、また防衛庁長官時代の経験を踏まえて、新設の必要性を強く訴えてきた大臣肝いりの部署だ。

手塚のキャリアから考え、その任にふさわしいポストであるといえ、将官昇任と併せ、今まさに最後の奉職と決めて、日々任務に励んでくれていることだろう。

 

激務を絵に描いたようなキャリアを経て、いよいよ陸上自衛隊生活の総仕上げに入ったわけだが、その知識と経験から後進が学ぶことはとても多い。

ぜひその知見を余すこと無く組織に託し、30年先までも、我が国の平和と安全のために貢献する仕事をしてくれることを手塚には期待したい。

 

◆手塚信一(陸上自衛隊) 主要経歴

昭和
58年3月 陸上自衛隊入隊

平成
6年1月 3等陸佐
9年7月 2等陸佐
14年1月 1等陸佐
14年8月 陸上自衛隊幹部学校付
15年8月 陸上自衛隊幹部学校教官
15年12月 陸上幕僚監部研究課総括班長
16年3月 陸上幕僚監部情報通信・研究課総括班長
17年12月 第25普通科連隊長
20年8月 陸上自衛隊研究本部研究開発企画官
22年3月 北部方面総監部防衛部長
23年12月 第2師団副師団長 陸将補
25年8月 東北方面総監部幕僚副長
26年8月 陸上自衛隊開発実験団長
28年3月 陸上自衛隊幹部学校副校長
29年3月 防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当) 陸将
30年8月 防衛装備庁長官官房装備官(陸上担当)のポストを最後に勇退

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