諏訪国重(すわ・くにしげ)|第35期・第73戦車連隊長

諏訪国重(すわ・くにしげ)は北海道出身の陸上自衛官。

防衛大学校第35期の卒業で幹候72期、職種は機甲科だ。

生年月日は判明しないが、第35期はストレートの場合、昭和43年度の生まれにあたる。

平成31年3月(2019年3月) 第73戦車連隊長・1等陸佐

前職は陸上幕僚監部人事教育部募集・援護調整官であった。

なお、第73戦車連隊長としての指導方針は以下の通り。

【連隊長統率方針】
任務必遂

【連隊長要望事項】
常時即応
一令即動
家族を大切に

2019年7月現在、第73戦車連隊長を務める諏訪だ。

南恵庭駐屯地に所在する、我が国が誇る最強の機甲科部隊の一つであり、対ロシア戦闘の主力として冷戦時代から今もなおその存在感は極めて大きい。

なお冒頭でのご案内だが、今回の記事に使用させて頂く写真はすべて、私に自衛隊の事を色々教えてくださる大師匠のお一人、小島肇(第19期)・元2等陸佐からご提供いただいたものである。

陸自を退役後はプロのカメラマンとして活躍をされているが、その活動の一環で北部方面隊の勇姿を動画や画像に収め、DVDなどに仕上げてその広報活動を支援している。

今回お借りした画像はすべて、第73戦車連隊を取材した際に撮影されたスナップショットを特別にご提供頂いたものである。

小島様、いつもありがとうございます!

さて、その北方の精鋭部隊を率いる諏訪である。

第73戦車連隊を任されるだけあって、そのキャリアはいずれも非常に印象深いが、敢えてひとつ挙げるとすれば、それは第6戦車大隊長のポストだろうか。

宮城県の大和駐屯地に所在する第6戦車大隊を諏訪が預かっていたのは、平成22年8月から23年12月まで。

その任期のど真ん中、23年3月にあの東日本大震災が東北を襲った。

大和駐屯地そのものは内陸に所在し、海岸から直線距離でざっと10km以上は離れているので、津波による直接の被害は受けていない。

しかし、甚大な被害を受けた東松島や石巻と言った海岸の街からは20km~30kmの場所に所在している。

そしていうまでもなく、駐屯地に勤務する曹士の多くは地元出身だ。

そのため同駐屯地では、震災にあたっては自衛隊員として救助をする側であったが、同時に多くの家族や知人の安否が不明な中にあって、厳しい任務を担うことになった。

その最前線で指揮にあたったのが諏訪だったのだが、やはり連日、多くの幼い子供、女性、若者と言ったご遺体を収容し続けると、隊員たちの心身の疲労は限界に近い場面もあったそうだ。

そんな時に、指揮官はどうしたのか。

一般には知られていない言葉だが、防衛省には「解除ミーティング」という言葉がある

◆防衛省より引用

https://www.mod.go.jp/j/approach/hyouka/seisaku/results/23/cyukan/sankou/01.pdf

遭遇した体験やその時の感情を班レベルで話し合い、ストレスの緩和と解消を図るものだが、やはりよく知る街が壊滅し、馴染みのある故郷で多くのご遺体を収容する作業は想像して余りある過酷な任務だ。

内に溜め込んでしまえば、どれほど心身が強靭な者であっても、たちまち心が壊れてしまうだろう。

一度、想像してみて欲しい。

自分の故郷が一瞬にして瓦礫の山になってしまい、そこにおびただしい数のご遺体がある風景を。

そしてその中で、家族や知人の安否がわからないままに救命救急活動に従事する隊員の心境を。

確かに、自衛隊員は心身ともに本当に強い。

その強さは私たちがあの震災で目の当たりにした通りであり、被災者には温かい飯を振る舞いながら、隊員は物陰に隠れて冷たい缶飯を震えながらかじるなど、全ての活動が今や伝説的ですらある。

しかしながら、それは私たち国民を護るという強い信念のもとでなし得た奇跡であることを、改めて認識して欲しいと願っている。

実際にあの震災にあっては、ほとんどの隊員は最初の数日間、家族の安否をほとんど確認できていなかった。

さらに、災派の現場で目にするのは瓦礫と化した多くの家屋と、瓦礫の間に無残に遺されたご遺体などの光景である。

震災から数日が経過し、交代で任務を解除されそれぞれの家に向かった際に目にするものも、やはり瓦礫と化した自宅や実家などであり、家族の姿は見当たらないケースがほとんどであった。

そんな中、避難所や親戚宅などに避難している家族と初めて対面し、子供達をその胸に抱くことができた隊員たちの中には、人目もはばからずに大声を上げて号泣するものもいたそうだ。

私たちは、強く、そして優しい自衛隊員の「表の顔」を伝えるニュースしか知らないが、実際にあの震災の最前線では、そのような事実があった。

だからこそ、私たち国民はいちど事が起これば、ぜひできる範囲で、自衛官の家族のケアに当たって欲しいと願っている。

自衛隊員が震災や有事などで後顧の憂い無く仕事をするためには、家族の安全確保が不可欠だ。

そして、家族にとってもっともそばに居て欲しい時に、自衛隊員は家族の元を離れなければならない。

であるならば、残された自衛官の家族に対し、自分たちでできるどんな僅かなことでもいいのでバックアップをすることこそ、私たち国民の義務ではないだろうか。

ぜひ、震災などにあって本当にわずかでも心身の余裕があるのであれば、自衛官の家族の支援を意識して欲しい。

なぜなら、彼ら・彼女らにとっていちばん大事な人がその時に、国民のために献身的に任務に励んでくれているからだ。

当時、第6戦車大隊を預かっていた諏訪は、やはり解除ミーティングの事を忘れられないと小島に語ってくれたそうだが、無理もないだろう。

あの最前線で指揮を執るということは、それほど厳しく、ギリギリの決断の連続であったはずだ。

改めて、73戦車連隊長に着任する幹部とはどういう男であるのか。

再認識させられる思いであった。

では、そんな諏訪とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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コメント

  1. のりまき より:

    私がこの人の名前を見た時、一瞬長野県の諏訪地域を支配していた諏訪氏の末裔かと思いました。実際に諏訪盛重や諏訪頼重と言った武将も居ましたし。

    と話は逸れましたが、私が偶然富山地方協力本部長時代のプロフィールを遊び半分で撮影したのが残っていて、平成26年3月に研究本部研究員で平成27年8月に富山地方協力本部長になっています。後、Wikipediaによると29年3月に陸幕人事教育部募集・援護調整官になっています。その為、前にyoutubeで平成29年度の高等工科学校の入校式の映像で来賓に諏訪一佐が出席していて、富山で入隊・入校激励式もあり、富山県出身の工科生にしたら2度も同じ人から激励を受けたことになります。

    それで、一番大事な生年月日ですが、昭和41年10月10日(富山地方協力本部長時代のプロフィールから抜粋)で第1次東京五輪から2年後が誕生日という事で本来なら防大33期のはずですが、何かの事情で35期での入校になったんでしょうね。(ちなみに前任の富山地本本部長も35期で同期です)。と長々となりましたが、ちょっと気になったので書き込みしてみました。

    • ytamon より:

      のりまきさん!
      私も全く同じことを思いました。
      北海道がご出身と言うことですが、もしかして長野の諏訪家の末裔ではないのか?と。
      富山地本長時代のプロフィールをお持ちなのですね!
      すごいですね・・・
      私は手元にありませんので生年月日情報を更新できませんが、どこかで2回寄り道をされいるというのも興味深いです!
      今度、小島元2佐に聞いてみます(笑)