2019年12月、航空自衛隊・空将の人事異動が防衛省から発令された。
今回の異動で新たに空将に昇った最高幹部は2名。
そして新旧交代で航空自衛隊を去った空将も2名となった。
その中で今回の異動については、どうしても皆さんにお伝えしたいエピソードがある。
新たに空将に昇任した、尾崎義典(第32期)についてだ。
軽く尾崎のご紹介をさせて頂くと、尾崎はF-4戦闘機パイロット上がりで、米国士官学校への留学を経て、平成14年8月からはイラク戦争後の中東政策を指揮する米中央軍司令部に派遣され連絡官を務めるなど、我が国の安全保障実務のど真ん中で活躍をしてきた男だ。
パイロットとしての初任地は第83航空隊であり、その後も新田原の第5航空団飛行群司令として指揮を執るなど、常に第一線で体を張って厳しい任務をこなしてきた。
そんな尾崎だが、実は尾崎のお父様は、尾崎がまだわずか7歳であった時にお亡くなりになっている。
そしてそのお父様のお名前は、尾崎義弘・2等空佐(享年40)。
よほどの航空自衛隊マニアであればお気づきになった人がいるかも知れないが、我が国が最新鋭戦闘機であるF-4戦闘機を導入する黎明期に、臨時飛行隊長を務めた凄腕パイロットだった方だ。
事故は本当に、ある日突然だった。
昭和48年5月、尾崎義弘2空佐の指揮の下、阿部正康1空尉とともに百里基地を飛び立ったF-4戦闘機は鹿島灘沖でレーダーから機影が消失し、連絡を断つ。
空自は直ちに捜索隊を派遣するが、四散したF-4戦闘機の残骸を発見したのみで、尾崎2佐と阿部1尉を発見することは出来なかった。
原因は、F-4戦闘機が空中爆発したことによって起きた事故であると結論付けられた。
それから11年後。
父と同じ道を志し防衛大学校に進んだ若者は、父が命を落としたF-4戦闘機を敢えて選び、パイロットになった。
そして、父が文字通り命をかけて作り上げようとした「精強なF-4戦闘機部隊」を引き継ぎ、育成・指揮し、父の見果てぬ夢を共に追った。
さらにその父が亡くなってから、実に47年後。
父の背中を追いかけ始めた7歳の少年は54歳になり、2019年12月の将官人事でついに空将に昇任した。
気がつけば、父が亡くなった時の年齢である40歳も、2等空佐という階級も超えていた。
きっと今、そんな尾崎を遠い空から見守っていたお父様も、息子のこの活躍を誰よりも喜んでいるのではないだろうか。
そんな偉大な父に育てられた男は、誰よりも厳しい訓練に耐え、心身ともに過酷な任務に臨み続け、日本の空の安全を守り抜いてきた。
(しかし激務のために、髪は守れなかった・・・)
人事はまさに人生そのもので、人の数だけ印象深いお話がある。
今回はたまたま尾崎空将のお話を挙げさせていただいたが、ぜひ読者の皆様には、一人ひとりの幹部曹士の皆様、そして家族の想いや人生にも思いを馳せて、応援してほしいと願っている。
心身ともに強靭な自衛官ではあるが、やはり国民からの応援が何よりの”元気の源”だ。
そして、私たち一般国民にできる何よりの「国防への貢献」でもある。
小難しいことを考えずに、周年行事などに足を運び、「いつもお仕事お疲れさまです!」と声をかけるだけでも十分ではないだろうか。
ぜひ、身近なところから始めて頂ければ嬉しく思う。
なお例によって、アイキャッチ画像の美しい女性は・・・
と言いたいところだが、今回はこんなエピソードをご紹介したかったので、少しカッコイイ画像を探してきた。
最新版の防衛白書(令和元年版)に掲載されている、スクランブルに向かうパイロットを撮影した一コマだ。
元々は、尾崎がそうであったように、F-4戦闘機に向かいダッシュするパイロットの画像を必死になって探したのだが、さすがに見つからなかった・・・。
そのためF-15戦闘機ではあるが、若き日の尾崎はこうであったのだろうかと。
そんなイメージ画像として楽しんで貰えれば幸いだ。
その他、人事の詳細な内容は以下の通り。
※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。
(画像提供:防衛省公式Webサイト 令和元年版防衛白書)
空将に昇任させる
(統合幕僚監部総務部長)
空将補 尾崎義典
(航空幕僚監部監理監察官)
空将補 深澤英一郎
航空幕僚副長を命ずる
(防衛装備庁長官官房装備官)
空将 内倉浩昭
北部航空方面隊司令官を命ずる
(航空幕僚監部監理監察官)
空将 深澤英一郎
航空開発実験集団司令官を命ずる
(北部航空方面隊司令官)
空将 森川龍介
防衛装備庁長官官房装備官を命ずる
(統合幕僚監部総務部長)
空将 尾崎義典
退職を承認する
(航空幕僚副長)
空将 荒木文博
(航空開発実験集団司令官)
空将 井上浩秀
(以上、2019年12月20日付)
防衛省発表資料
https://www.mod.go.jp/j/press/jinji/2019/1220a-1.pdf
予備校に通っている者です。
先日、講師が防衛医科大学校病院で治療されたそうで、内容の説明が丁寧ですごく良かった、「さすが自衛官!」と絶賛していました。
おぉ~、なかなか素晴らしい講師さんですね!
ぜひかてごりー様も、機会があれば記念行事などに遊びに行き、自衛官の皆さんに話しかけてみて下さい!
はい、私も防大入試のため、とある駐屯地の医務室で問診を受けました。そのお医者さんは緑色の迷彩服の上に白衣という不思議な格好だったので、「どっちか脱げよ!(笑)」と思ってしまいました。
それはさておき、1日に何百人も診て忙しいはずなのに、やはり丁寧で物腰柔らかくとても好印象でした。
>緑色の迷彩服の上に白衣という不思議な格好
(´・∀・`)ヘー
さすがに医官の診察を受けたことがないので、初めて聴きました!
面白そうですね~
今度、駐屯地の中で急病のふりを・・・したら怒られるな、止めておこう
(^_^;)
昔は医務室や病院勤務は原則制服勤務だったのですが、いつの頃からか迷彩服勤務が可になりました。(当然ですが、診療に直接かかわる自衛官は白衣や看護服を着用しています。)即応性重視になったからだと聞いたような気がします。なので白衣の下に迷彩服と言うのは、もしかしたら部隊勤務(方面か師団・旅団の衛生隊)か病院からの支援医官の方ではないでしょうか?脱ぐのがめんどうくさかったのか?、忙しかったのか?たぶんご本人は気にしていなかったと思います。あくまで推測ですが・・・
興味深いお話ですね、コメントありがとうございました!
即応性重視、なるほど。。