増田友晴 (ますだ・ともはる)|第33期・航空自衛隊

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増田友晴は広島県熊野町出身の航空自衛官。

防衛大学校第33期の卒業で幹候89期、出身職種は飛行だ。

生年月日は判明しないものの、防大33期であれば、ストレート入学の場合、昭和41年度の生まれであると思われる。

 

平成29年8月(2017年8月) 幹部候補生学校長兼ねて奈良基地司令・空将補

前職は航空幕僚監部人事教育部補任課長であった。

 

さて、2017年8月に空将補に昇任し、将官の仲間入りを果たした増田である。

その為、この記事をポストしている2017年10月現在、最新の防衛年鑑や自衛隊年鑑にも記載が無く、空将補になりたての高級幹部だ。

 

そのキャリアを見ると、航空自衛隊の入隊が平成元年であり、平成21年4月には、1等空佐職である航空幕僚監部人事教育部の制度班長に補職されていることから、恐らくその前の1佐昇任人事、つまり平成21年1月に1等陸佐に昇任していることになる。

つまり、第33期の1選抜(1番乗り)での出世だ。

それから空将補に昇るまで8年掛かっているので、同期最速の2年遅れという事になりそうであり、その分現場経験をこなした上での、堂々の将官昇任である。

 

また、その出身職種は飛行であり、戦闘機パイロットの出身であろうことは確実なのだが、恐らくF-15戦闘機のパイロットであったと思われる。

その為、同期のF-15戦闘機パイロット出身の将官で言えば、安藤忠司(第33期)らと共に航空教育集団で教育を受けたと思われ、初任地は第6航空団であったはずだ。

 

20代後半から30代前半の若い時代を、国防の最前線である石川県の小松基地でイーグルドライバーとして過ごした、航空自衛隊を代表するエリートらしいキャリアである。

日夜スクランブルに上り、我が国の平和と安全をその双肩で背負い続け、国防に貢献し続けた青年期であった。

このようなキャリアをもつ増田の空将補昇任であり、幹部学校長への着任である。

若き航空自衛隊の士官候補生を育成する幹部候補生学校の校長職は、まさに適任であると言えるだろう。

 

増田については将補になりたてであり、情報が不足していることから、当時の状況から可能性が高いであろう事の記載となっている。

その為、防衛年鑑や自衛隊年鑑での記載が確認できた場合、あるいは記載間違いがあった場合や新しい事実が判明した場合には順次加筆修正していく。

 

 

なお、その航空自衛隊奈良基地であるが、いろいろな意味で特別な基地だ。

奈良基地があるのは奈良市法連寺町という場所であり、奈良平城京で有名な大極殿がある場所からすぐの場所で、周囲には天皇陵や古墳が多く点在する、非常に歴史の流れを感じさせる土地柄である。

 

また近隣には、奈良県下最難関で知られる進学校の奈良高校があり、また奈良教育大附属中学もあるなど、文教地区として整備された一角に近い。

このあたりの地域柄は、一度足を運べばお分かり頂けるのだが、歴史の重みを感じ、また優秀な人間が集まり切磋琢磨するにふさわしい一種独特の空気がある。

 

そんな風光明媚な奈良にあって、我が国の平和と安全を背負っていく航空自衛隊の幹部候補生を育てるにふさわしい場所に奈良基地はあるのだが、一方で残念なことに、奈良県にある自衛隊の基地はこの航空自衛隊奈良基地のみである。

非常に異例なことなのだが、奈良県には日本で唯一、陸上自衛隊の駐屯地が存在しない。

 

奈良県はいわゆる海無し県であり、日本最初の都が置かれたことからもおわかりのように、非常に地盤が強固で災害がとても少ない都道府県の一つだ。

そのため、いつか起こることが懸念されている南海・東南海地震においても被害がもっとも少ないことが予想され、その際には、大規模な被害が予想される大阪や和歌山、三重と言った近隣府県に対し、救援活動の拠点とならなければならない。

 

にも関わらず、今のままでは、もっとも被害が少ないであろう奈良県は、他府県から自衛隊に着てもらい救援をして貰う立場になる。

航空自衛隊奈良基地は、幹部学校と警務隊のみが所属しているだけであって、滑走路も無ければヘリポートも、諸行事の際に臨時に使用する目的の小規模なもの(未舗装)があるだけだ。

つまり空自奈良基地は、災害派遣に出動するとしてもその能力上、大規模な活動をするのは不可能だということである。

 

なぜこんな歪なことになってしまっているのか。

それは伝統的に、近畿圏では左翼勢力が非常に力を持っているということもあるが、特に奈良では、陸自の新駐屯地建設計画が立ち上がるたびに、左翼勢力によって潰されてきた歴史がある。

 

こんな情けないことがあるだろうか。

大規模災害で国民が苦しんでいる時に、その救援の拠点としてもっとも力を発揮できる奈良に救援の拠点を作ることができず、逆に助けて貰う側になるのである。

思想的背景を割り引いて考えても、人としてそれでいいのかと、奈良県の陸上自衛隊新基地建設反対派にはため息しか出ない思いだ。

 

ちなみにこの勢力は2016年、航空自衛隊奈良基地開設60周年記念の際に、ブルーインパルスが上空に飛来することにも猛反対をした。

世間との意識の乖離が甚だしいことこの上ないが、もはやここまでくれば何が目的なのか。

少なくとも平和運動そのものでないことは、間違いないだろう。

 

なお余談だが、かつて招いて頂くことがあり、課業中の奈良基地に入れて頂いたことがある。

グラウンドでは頼もしい、若き士官候補生たちが丸刈り頭で運動に励んでいるのを興味深く眺めたりさせてもらったが、一つ気になることがあった。

昭和の頃、子供は誰でも草野球に親しんでいたのでボールの投げ方と言えば自然に身についていたものだが、何人かの学生は、野球投げができないのか、腕を伸ばしたまま投げるやり投げのフォームで、ボールの遠投に取り組んでいた。

或いは手榴弾の投擲のように、何か特殊な投げ方があってそれを忠実に守っていたのかもしれないが、もしかしたら子供の野球離れで、今は野球投げができない若者が増えているのかと心配になったほどであった。

今から思えば案内してくれた事務官の方に聞いておけばよかったと悔やまれる次第だが、運動が万能な若き自衛官にも、アウトドア経験が不足しているものが居るのかもしれない。

 

いずれにせよ、そこで見た光景は非常に活気があり、また伝統を重んじ、我が国の平和と安全を守るために日夜訓練と学業に励む若く頼もしい力であった。

そんな学生と、30年ぶりにこの奈良で過ごすことになった増田である。

候補生にとっては、10年先、20年先にも影響を与え続けるであろう増田の存在は、まさに10年先、20年先の国防を担うことになる人材の育成そのものの象徴であり、その見識に与える影響は極めて大きい。

 

ぜひ、頼もしい航空自衛隊の幹部を育成してくれることを、心から期待し、また応援したい。

 

◆増田友晴(航空自衛隊) 主要経歴

平成
元年3月 航空自衛隊入隊(第33期)
21年4月 航空幕僚監部人事教育部人事計画課制度班長(市ヶ谷)
23年4月 自衛隊青森地方協力本部長(青森)
25年4月 航空幕僚監部総務部総務課総務調整官(市ヶ谷)
26年3月 統合幕僚監部総務部連絡調整課長(同)
27年10月 統合幕僚監部総務部総務課連絡調整官(同)
27年12月 航空幕僚監部人事教育部補任課長(同)
29年8月 幹部候補生学校長兼ねて奈良基地司令 空将補

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省航空自衛隊 知念屯基地公式Webサイト(顔写真及び行事写真)

http://www.mod.go.jp/asdf/nara/01about_nara_base/01kitisirei_aisatu/index.html

http://www.mod.go.jp/asdf/nara/01about_nara_base/03aocs/index.html

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