堀次郎(ほり・じろう)は昭和41年8月17日生まれ、大阪府出身の陸上自衛官。
出身種別は判明しないが、平成3年3月に幹部候補生学校に入校しているので、防衛大学校第35期の卒業か、もしくは一般大学卒業の幹候72期ということになる。
そのため暫定的に、第35期として記載したい。職種は野戦特科だ。
令和元年5月(2019年5月) 自衛隊愛媛地方協力本部長・1等陸佐
前職は中部方面混成団副団長であった。
(画像提供:陸上自衛隊第1特科団公式Webサイト)
(画像提供:自衛隊愛媛地方協力本部公式Webサイト)
2019年9月現在、自衛隊愛媛地方協力本部長を務める堀だ。
自衛隊地方協力本部は、新たに自衛官になろうとする若者の採用や、自衛隊を退役し、第2の人生に進もうとする自衛官の再就職の斡旋、さらに自衛隊の知見を民間に提供する窓口になるなど、民間との接点になるあらゆる業務を行う。
また発災時には自衛隊と地方公共団体を繋ぐ窓口になり調整業務を行い、平時には民間人として働く予備自衛官の管理も行うなど、その業務は多岐にわたる。
そのため、その任務は時に
・自衛官の入口と出口
・平時の最前線
とも表現される、非常に重要な役割を担っている。
自衛官の仕事としては唯一、民間企業等を相手に「営業」を行う必要もあることから、コミュニケーション能力に優れていることも要求されるポジションだ。
要するに、人格・経験・知見の全てが高いレベルでまとまっている幹部にしか務まらないと言うことである。
堀が務めるのは、そのような任務だ。
これほどの要職を務める堀である。
そのキャリアはどれも印象深いものばかりだが、敢えて一つ上げるとすれば、それは平成16年8月から務めた、第3次イラク復興支援隊の一員としての重責だろうか。
ご存知のように、今だから言えることだが、この時のイラク復興支援隊・イラク復興支援群の任務が行われていたのはぶっちゃけ、完全な「戦地」であった。
とくにこの、堀が赴任した第3次隊は、その前任である第2次隊の時に自衛隊の宿営地に7度も砲弾の着任が確認され、また日本人の民間人3人が地元の武装勢力に拉致される事件が発生するなど、もっとも不安定であった時期にあたる。
言い換えれば、戦後初めて「海外派兵による自衛官の殉職」の可能性がもっとも高かった時期と言っても良いだろう。
すでに多くの国民が、当時の空気感を忘れているかも知れない。
しかしながら、私(管理人)は当時、イラクに赴任した多くの幹部曹士の方から直接お話をお聞きする機会に何度も恵まれているが、やはりこの任務を受けることは、死を覚悟することであったとお聞きしている。
この辺りは、先日ご紹介した
自衛隊はなぜ精強なのか ある下士官の生き方から見えた自衛隊の真実
でも触れているが、この困難な任務にあたった自衛官は皆、私達国民が想像する以上に、悲壮な決意をもって現地に赴いた。
そして堀は、そのもっとも困難な時期に、中堅の指揮官として現地にあって指揮を執ったということだ。
ぜひ愛媛地方協力本部で、これから自衛隊を志す若者は機会を見ては堀を捕まえて、
「当時のイラクでの仕事を聞かせて下さい!」
と聞いてみてはどうだろうか。
おそらく、困難ではあったが、やりがいのある素晴らしい体験談を聞くことができるはずだ。
だからこそ、堀が今、地方協力本部長を務めている。
エラい人だからといって、遠慮はいらない。
ぜひ、上記画像の中央に写る堀の顔をしっかりと覚えて、機会を捉えていろいろと質問して欲しい。
では、そんな堀とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
Wikipediaでは防大35期になっていましたので、上記の通りで合っていると思います。誕生日もわかっていたのは驚きでした。愛媛地本の本部長室コーナーには誕生日書かれていなかったので。35期はこの前夏祭りがあった第一空挺団の団長戒田陸将補と同期とは。
うふふふふ(笑)
過去に補職されていた駐屯地などの広報紙(公開情報)を徹底的に読むと、いろいろなことがわかるのです!
ただ、35期であるのかどうかまでは、確定できる情報に行き当たりませんでした。
wikipediaも参照したことがないと言えば嘘になるのですが、本当に間違いが多いので、確定情報として書けないのが辛いところです。
肌感覚で、20%くらいの確率で情報が古いか、そもそも間違えているという感じです。
まあそれでも、よく調べてるな~と思うことは多いですが!