岡本宗典(おかもと・むねのり)は昭和44年12月18日生まれ、兵庫県西脇市出身の陸上自衛官。
防衛大学校第37期の卒業で幹候74期、職種は機甲科だ。
防衛大学校在学中はハンドボール部の所属であった。
平成30年3月(2018年3月) 陸上総隊司令部報道官・1等陸佐
前職は第3普通科連隊長兼ねて名寄駐屯地司令であった。
なお、第3普通科連隊長であった時の指導方針は以下の通り。
【要望事項】
「即動態勢の維持」「理想の追求」
(画像提供:陸上自衛隊第3普通科連隊公式Webサイト)
(画像提供:陸上自衛隊第3普通科連隊公式Webサイト)
2019年2月現在、我が国の最精鋭部隊を直轄し、また全軍を統率する可能性がある陸上総隊で、報道官の要職を務める岡本だ。
陸上総隊は中央即応集団を母体とし、2018年3月、陸自大改革でさらにその機能を強化して誕生した組織であり、有事の際には方面隊を隷下において危機対応にあたる。
また第1空挺団や特殊作戦群、第1ヘリコプター団といった文字通りの「飛び道具」を隷下に持ち、あらゆる有事の尖兵となって戦いを有利に進める任務も担う。
要するに、我が国の戦闘の要にして頭脳という、極めて重要な組織であるということだ。
そのような組織で司令部にあり、報道官を務める岡本のことである。
そのキャリアはいずれも印象深い補職ばかりだが、あえて一つを挙げるとすれば、それは平成27年8月から務めた、第3普通科連隊長兼ねて名寄駐屯地司令のポストだろうか。
第3普通科連隊は北鎮師団・第2師団の隷下にあって、名寄駐屯地に所在し、我が国屈指の最精鋭部隊を揃えることで知られている。
連隊編成の部隊として、また一線級の戦闘集団として我が国の最北に位置し、冷戦時代から今に至るまで、対ソ連(対ロシア)戦闘の最前線として位置づけられてきた。
そのため、その備えは物量・質ともに非常に充実した戦力が整備され、また連隊長に着任する1等陸佐は選りすぐりの幹部ばかりであった歴史を持つ。
そんなこともあり、名寄駐屯地司令を務める第3普通科連隊長経験者からは、実に3名もの幹部が、陸上幕僚長に昇っている。
以下の顔ぶれたちだ。
第10代陸上幕僚長 中村龍平(陸士49期)
第14代陸上幕僚長 高品武彦(陸士54期)
第32代陸上幕僚長 火箱芳文(第18期)
陸上幕僚長は2019年2月現在で第36代であり、つまり36名しか着任していない。
なおかつ連隊の数は、普通科連隊だけでも、廃止されたものを含めて52個を数える。
もちろん他に、機甲科、施設科、野戦特科、高射特科、後方などの各連隊もあることから、単純に、1普通科連隊から1名すら陸上幕僚長に着任できない計算になることを考えると、この名寄の3名という数字の凄さが、おわかり頂けるのではないだろうか。
それほどまでに、我が国の北の国境の守りを任されたのは、デキる幹部ばかりであったということだ。
さらに、自衛隊史上もっとも困難な海外での活動の一つであったイラク派遣。
初代イラク復興支援群長を務め、この極めて困難な任務にあたったのは、当時第3普通科連隊長であった番匠幸一郎(第24期)であった。
これほど危険でかつ困難な任務の尖兵として、この第3普通科連隊の精鋭とその連隊長が選抜された事実をしても、ここに所在する我が国の北の防人がどれほどの実力集団であるのか。
おわかり頂けるのではないだろうか。
岡本は、このような伝統と誇りある第3普通科連隊を預かり、そして大いに実績を残して、現職に栄転している。
では、それほどの要職を任された岡本とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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