井上吉隆(いのうえ・よしたか)|部内幹候83期・航空自衛隊

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井上吉隆は昭和41年11月20日生まれ、神奈川県出身の航空自衛官。

最終学歴は中央大学法学部の出身で、空士長として入隊後に部内幹候83期で幹部に昇任した2等空佐だ。

 

平成29年1月(2017年1月) 第27警戒群司令兼ねて大滝根山分屯基地司令・2等空佐

前職は航空幕僚監部勤務であった。

なお、第27警戒群司令兼ねて大滝根山分屯基地司令としての指導方針は以下の通り。

 

【指導方針】固定観念の打破

 

2017年12月現在、第27警戒群司令兼ねて大滝根山分屯基地司令を務める井上だ。

大滝根山分屯基地は入間基地の隷下にあり、警戒管制レーダーを運用し24時間365日態勢で防空任務を実施している他、無線装置も配備されており、陸海空の通信を中継する基地としても重要な役割を果たしている。

福島県下にある唯一の航空自衛隊の基地だが、東日本震災の時には、ギリギリの隊員で運用している基地業務から可能な限りの隊員を割いていち早く被災地に駆けつけ、救命救助活動を始めた実績がある。

 

また、基地が所在するのは大滝根山の山頂、標高1192mの場所であり、基地内には一等三角点が存在するが、実はこの基地、陸海空自衛隊を通じてもっとも高い場所に存在するという記録を持っている。

そのため、福島県という土地柄もあり、冬の寒さや雪の量はやはりかなりのものだ。

極めて厳しい自然環境の中ではあるが、首都圏をはじめとした我が国の空の安全を守るために不可欠な基地であり、隊員たちはこの厳しい環境の中で、井上の指揮の下、日々任務に励んでいる。

 

さて、その井上だが、最終学歴は中央大学法学部であるものの、航空自衛隊入隊は19歳の頃であり、空士長としての入隊であった。

そして初任地がここ、大滝根山分屯基地であったので、実に30数年の時を経て初任地の司令として戻って来たことになる。

部内幹候83期として幹部学校に入校したのが平成5年であり、おそらく中央大学法学部は、当時存在していた夜学ではなく、通信制での卒業のはずだ。

下士官として厳しい任務をこなしながら部内で必要な勉強もこなし、なおかつ大学の単位も通信制で取得して卒業し、さらに部内幹候の試験にも合格したことになるが、呆れるばかりの努力家である。

人を魅了するえびす顔がとても素敵な井上だが、鉄の意志で目的を完遂する幹部自衛官としての強さは、下士官時代から既に十分備わっていたと言うことなのだろう。

 

 

さて、その井上が大事にしている価値観で、指導方針にも挙げているのが「固定観念の打破」。

下士官上がりの幹部らしく、その要求は現場目線での現実的なものになっており、とても頼もしい。

井上の要求するところは、これまでに発生しなかったことはこれからも発生しないという考えを根本から捨てること。

そして、これまでは必要なかったからという考えで訓練や備えに妥協することを、一切許さないということだ。

あらゆる事態に臨機応変な対応をすることが可能な心身の備えを隷下部隊に要求し、精強な部隊を作り上げる決意であり、その目的に向かって厳しく、そして暖かく部下を指導している。

 

部内から昇格した幹部らしく、地に足がついた指導方針はその安定性を強く感じさせる。

 

なお余談だが、SNSや様々な掲示板では、年齢と階級だけで「出世が遅い」「出世が早い」という短絡的な書き込みと誤解を見掛けることが多い。

この誤解に、敢えてこの機会に言及すると、井上の年齢は2017年12月現在で51歳で2等空佐だ。

航空自衛隊には2等空佐より2階級上の51歳の空将補もいるので、「出世が遅い」という理解になってしまうのかもしれないが、これは間違った認識だ。

単に「役割が違う」ということにすぎない。

 

もっとわかり易い例で説明すると、防衛大学校を卒業し陸海空の幹部候補生学校に入校した22歳の若者は、いきなり下士官の最上位である曹長に着任する。

さらに1年後には、幹部自衛官である3尉に昇任するのが通常だ。

一方で、現場に精通し、30年以上に渡り陸海空の各現場で仕事をこなしてきた古参の隊員が50代になり、定年を迎える時に昇っている最上位は曹長。

その中でも、特に顕著な実績を残し知見に優れる者は、最先任曹長や先任伍長という名誉を与えられることもある。

しかし、階級で言えば23歳の、幹部候補生学校を卒業したばかりの3尉よりも下だ。

 

このようなベテランをして「出世していない」というのはとんでもない評価である。

ベテラン曹長は、実質的な部隊オペレーションを取り仕切る中心的役割を果たし、その知見は20代やそこらの初級幹部が及ぶものではない。

いわば現場のエキスパートだ。

 

一方で幹部自衛官は、それら現場のエキスパートを統率するための技術や人格、能力を磨くことを学び、幅広い知見を得て全軍を俯瞰し、その能力を最大限に引き出すことを役割とする。

隷下部隊の規模が大きくなり、影響力も大きくなることから階級は上だが、どちらが重要かという議論は全く馴染まない。

どちらも重要であり、どちらが欠けても部隊は成り立たない。

もちろん、小隊や分隊、ひとりひとりの曹士についても同様である。

 

そしてその曹士と幹部の間で、現場と幹部の両方を繋ぐことが出来るのが、井上のような部内幹部だ。

井上のように、現場経験を熟知した上で幹部になるものがどれほど重要な存在なのか、その一例を上げたい。

 

日本陸軍史上、もっとも優れた指揮官を一人挙げるとすれば、恐らく多くの人がその名前を挙げるであろう陸軍大将がいる。

児玉源太郎だ。

児玉源太郎は日露戦争において大山巌・満州軍総司令官を支える総参謀長として手腕をふるい、ロシア相手に奇跡のような陸戦の勝利をもたらした、日本史上類を見ない程の作戦家だ。

そしてその児玉が、黎明期の日本陸軍において初めて得た階級は半隊司。

今で言う分隊長相当だが、児玉はこの階級で戊辰戦争を各地で転戦し、その名を大いに上げる。

 

その後、新たに発足した陸軍の組織においても下士官としての任官であったが、その現場力と能力は卓越したものであり、次々に昇任を重ね、少将に昇ったのはなんと37歳の若さだ。

そしてついに、我が国の命運を握る総参謀長として日露戦争を戦い、奇跡の勝利をもたらす活躍を見せ、世界を驚かせる程の男になった。

 

この事例でお伝えしたかったことは、現場を知り尽くし、現場を大事にする軍事組織の幹部というのは、本当に重要だということだ。

昭和の日本陸海軍が、その組織力を失った主要な理由の一つとして、エリート主義を挙げる人は少なくないが、どんな組織もエリートだけでは絶対に機能しない。

必ず、現場を知り、また全軍を俯瞰することもできる、どちらの能力も兼ね備えたものの存在が不可欠となる。

 

それがまさに井上のような部内幹部であり、現場出身でありながら幹部として組織を俯瞰することが出来る幹部の役割だと言って良い。

このような幹部がいるからこそ、自衛隊はその精強さを維持できている。

 

2等空佐であり、防衛省の公式サイトで人事異動の発令が発表されないので、その補職はなかなか追いきれないかもしれない。

然しながら、井上の活躍は出来る限り追跡し、今後もレポートしていきたい。

 

昭和
60年3月 航空自衛隊入隊(山口県)
61年 中部航空警戒管制団(大滝根山)(福島県)

平成
3年 防空指揮群(東京都)
5年 第83期一般幹部候補生課程(奈良県)
6年 飛行開発実験団(岐阜県)
9年 北部航空警戒管制団(青森県)
14年 西部航空方面隊司令部(福岡県)
17年 幹部学校付(東京都)
18年 幹部学校教育部(東京都)
19年 航空幕僚監部兼イラク復興支援派遣輸送航空隊司令部(クウェート)
22年 自衛隊福島地方協力本部(福島県)
25年 航空幕僚監部(東京都)
29年1月 第27警戒群司令兼ねて大滝根山分屯基地司令(大滝根山)(福島県)

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省航空自衛隊 大滝根山分屯基地公式Webサイト(プロフィール写真、行事写真、視察写真)

http://www.mod.go.jp/asdf/ohtakine/kichishirei/index.html

http://www.mod.go.jp/asdf/ohtakine/kouhou_event/index.html

http://www.mod.go.jp/asdf/ohtakine/news/index.html

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