【退役】堀江祐一(ほりえ・ゆういち)|第33期相当・北海道補給処長

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堀江祐一(ほりえ・ゆういち)は昭和39年7月生まれ、佐賀県出身の陸上自衛官。

少年工科学校生徒第26期を卒業後、下士官として活躍する傍らで日本大学経済学部に学び、平成元年3月に幹部候補生学校に入校しているため、防衛大学校第33期相当の幹部ということになる。

幹部としての出身職種は通信科だ。

 

令和4年12月23日(2022年12月23日) 陸上自衛隊北海道補給処長兼ねて島松駐屯地司令・陸将補として長きにわたる自衛官生活に終わりを告げ、制服を置いた。

前職は東北方面総監部幕僚副長であった。

後述するが、ここでは最後に、堀江にとっての原点である高等工科学校長時代の指導方針を改めて再掲しておきたい。

 

【統率方針】

「部隊を念頭においた学校理念の実現」

【教育に対する考え方】

『根を養えば樹は自ずから育つ』
(自衛官、そして人生における「基盤(根)」を養う)

(画像提供:陸上自衛隊高等工科学校公式Webサイト

(画像提供:陸上自衛隊高等工科学校公式Webサイト

ついにこの日が来てしまった・・・という思いだ。

管理人が大好きな自衛官の一人、堀江祐一(ほりえ・ゆういち)・陸将補が長きにわたる自衛官生活に終わりを告げ、制服を置いた。

2022年12月23日、寒波が襲来する全国の喧騒の中で、人生のすべてを捧げてきたと言っても良い自衛隊を静かに去った。

 

なお管理人には、何人か頼りになる”自衛隊の先生”がいるのだが、その中のひとりに江村さんという、とんでもない  面倒見の良い方がいる。

そしてその江村さんこそ堀江の幼なじみであり、40年以上にもなる大親友である。

そんなこともあり管理人も、江村さんを通じコロナ前、各地の駐屯地行事では堀江と何度か親しくお話をさせて頂いたことがある。

 

そのたびに感じた堀江の印象といえば、

・情熱的でありながら、実直で冷静沈着

・規律を重んじながらも柔軟

・威厳があるのに距離を感じさせない親しみやすさ

といったものであっただろうか。

 

かつて、第1師団開設記念行事(練馬駐屯地)の会場で堀江とお話している時、岡部俊哉(第25期)・元陸上幕僚長が通りかかられ、

「彼は本当に仕事もできるし、良いやつなんだよ!」

と、周囲に自慢をするかのようにご紹介をされていたのが、今も印象的だ。

 

上司、同僚、部下、友人など、私は堀江ほどに愛され、また敬意や愛情、仲間への思いやりといったものにあふれる自衛官を、他に何人も知らない。

本当に心から寂しいご退役となってしまい、何か大事なものを失ってしまったような虚しさすら感じている。

 

そんな堀江の原点は、少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)にさかのぼる。

”自衛隊の高校”と呼ばれる組織で、堀江が入校した頃は3等陸士に任官され、15歳にして階級のある自衛官に任官した時代だ。

言い換えれば、堀江は昭和55年4月(1980年4月)から実に42年間もの間、自衛官として勤務したのである。

42年前といえば、今、1等陸佐として連隊長を務め、あるいは陸幕で班長職を務めているようなエリートが生まれた頃といえば、その歴史に改めて驚くのではないだろうか。

その頃にはすでに階級を持ち、国防に若き人生を捧げていたということだ。

 

そしてそんな堀江に関する、江村氏から聞いた興味深いエピソードをこの場で紹介したい。

少年工科学校時代、ある行軍訓練の最中に堀江が体調を崩したかケガをしたのか定かではないが、隊列から遅れることがあったそうだ。

そんな時、周囲の仲間は次々に堀江に群がり、荷物を奪い堀江を抱き起こすと、そのまま皆で担ぎ上げるように支え、任務をやり遂げることがあったのだという。

 

もちろん、自衛隊での訓練とはそういうものであろうとは思うが、その想い出を語る江村氏やその友人たちの嬉しそうな笑顔が、今も目に焼き付いている。

「堀江だから、あそこまで皆が必死になって助けたんだよなあ」

「俺たちの自慢の同期だからな」

と口々に語る還暦手前のオッサンどもは、まるで15歳の悪ガキのままに嬉しそうであり、どれだけ堀江が愛されていたのかをしみじみと感じる出来事になった。

 

だからこそだろうか。

堀江とお会いするたびに、短い立ち話の中でも私が感じた堀江の価値観は常に、

 

「自分を殺してでも周囲を生かす」

「組織と部下のためになにができるか」

「個人的な名誉は一切不要」

 

という、徹底的なストイックさだった。

思うに、少年工科学校時代に過ごした友人たちとの時間が堀江の原点になっており、人間一人ができることの限界を正しく理解し、その上で感謝の気持ちとともにマネジメントをしないと、組織などとても動かないことを知り尽くしていたのであろう。

だからこそ、少年工科学校卒業後、陸曹としてしばらく勤務した後に幹部候補に合格するという経歴から、将官にまで昇りつめたのではないだろうか。

将官に昇るような幹部にはやはり、それだけの理由があるということである。

 

繰り返すが、私は堀江ほどに愛され、また周囲への愛情にあふれる自衛官を他に何人も知らない。

だからこそ、そんな堀江が、国民の誰にも知られること無く42年もの自衛官生活を終え、制服を置いたことを、一人でも多くの読者の人に知ってほしいと願っている。

そして一人ひとりがそれぞれの立場で、そんな自衛官がいたこととあわせ、

”全ての自衛官への感謝の想い”

を新たにして頂ければ嬉しく思う。

 

堀江陸将補さま、本当に長きにわたる自衛官生活お疲れ様でした。

そしてありがとうございました。

”何も気にしなくて良い”42年ぶりの年末年始、どこか戸惑いもあるように拝察しておりますが、どうぞゆっくりとお過ごしください。

そしてまた、気力・体力ともに充実し第二の人生を始められることを、心から楽しみにしております。

本当に、ありがとうございました!

(2022年12月25日 最終更新)

 

ーーーー 以下は、2019年5月に更新していた記事部分である ーーーーー

 

2019年5月現在、陸上自衛隊高等工科学校長兼ねて武山駐屯地司令を務める堀江だ。

「自衛隊の高校」とも評されることがある教育機関で、中学を卒業した優秀な少年を全国から  誘拐  選抜し、精強な陸曹を育成することを目的とする。

堀江自身も、15歳の春であった昭和55年4月から少年工科学校(現・高等工科学校)の生徒26期として学んだため、自衛官生活38年目にして、懐かしの母校に校長として帰ってきたことになる。

 

ところでこの少年工科学校という制度。

考えようによっては非常に過酷な教育制度だ。

中学を卒業したとはいえ、年齢はまだ15歳(16歳になる年)の少年を親元から完全に引き離し、全寮制の教育を施そうというのである。

もちろん外出は厳しく制限され、親や家族とも自由に連絡を取ることもできない。

ましてここは、15歳にして自衛官になろうという決意をした、平均よりも相当ぶっとんだ、鼻っ柱の強い連中の集まりでもある。

令和の今でこそそんな話は全く無いが、昭和の時代にはそれこそ、上級生による  鉄拳制裁  厳しい指導などは当たり前で、グーでぶん殴られた話など誇張でも何でも無いレベルであったそうだ。

もちろん、日々の学業や訓練も普通の高校生の比ではないレベルで、次々に少年たちに課され続ける。

そのような中、少年たちの心を癒やしたのは、やはり同期の仲間たちであったそうだ。

 

それもそのはずだろう。

同じ釜の飯を食ったどころか、同じ風呂に入り、同じ屋根の下で暮らし、同じ困難に共に立ち向かい続けた仲間たちである。

多感な青春時代ど真ん中を、野郎どもしかいない環境で共通の目標のために努力をし続けた仲間たちとの絆が、深くならないはずがないではないか。

今から40年近く前に、ここ(高等工科学校)で過ごした堀江には、誰よりもそれがわかっている。

だからこそ、堀江が生徒を見つめる目は、厳しくもとても温かい。

上記画像2枚めは令和元年5月11日(土)に、横須賀商工会議所で実施された国際ソロプチミスト横須賀主催のユースフォーラムに、高等工科学校の弁論部が参加した際のものである。

生徒に寄り添い親しく力づける堀江の姿がとても印象的だ。

堀江には、彼らが今、人生の中で非常に意義深く、そして思い出深い時間を過ごしていることがよくわかっている。

だからこそ、自身の持つ知見を全て余すこと無く伝え、素晴らしい自衛官に育て上げたいと願っている。

3年という限られた短い時間の中で、厳しく鍛え上げ、そして多くの素晴らしい思い出とともに卒業して欲しいと願っている。

きっとそんな想いで、この陸上自衛隊高等工科学校長という重責に臨んでいるのではないだろうか。

そして長かった自衛官生活の中でも、堀江自身も、とても印象深い任務になっているのではないだろうか。

 

では、そんな次世代の育成に大きな責任を担う堀江とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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