田上啓介(たのうえ・けいすけ)|航学33期・海上自衛隊

Pocket

田上啓介は昭和38年3月5日生まれ、熊本県出身の海上自衛官。

航空学生第33期の卒業で86飛幹候、職種はもちろん飛行であり、田上自身もSH-60Jのベテランパイロットである。

 

平成28年8月(2015年8月) 第73航空隊司令・1等海佐

前職は第51航空隊訓練指導隊長であった。

 

2017年9月現在、田上が補職されているのは第73航空隊の司令職だが、同隊は海上自衛隊の精鋭中の精鋭である救難飛行隊だ。

救難飛行隊には71航空隊(岩国・厚木)、72航空隊(大村、徳島、鹿屋)、73航空隊(館山、大湊、硫黄島)がその隷下にあり、71航空隊はUS-1とUS-2を。72航空隊と73航空隊はUH-60Jをそれぞれ運用し、救難活動にあたっている。

 

あらゆる海難事故において、田上を始めとした海上自衛隊の救難隊が救助できなければ、もう後がない。

従ってその訓練は常人の想像を遥かに超える過酷なもので、姿勢を保つことも不可能なほどの激しい造波プールの中で、要救助者を助け出すため、生命の危険を感じるほどの訓練を行う。

 

ちなみに、フリーのニュースキャスターで知られる辛坊治郎氏が2013年6月21日、全盲のヨットマンである岩本光弘とともに太平洋横断を試みて遭難した際に二人を救助したのは71航空隊のUS-2であった。

 

この時、二人が浸水を始めたヨットを遺棄し、逃げ延びたライフラフト(救命ポッド)を襲う波の高さは実に3~4m。

現場海域は大荒れで風速15mの風が吹き荒れている最悪のコンディションであり、遭難の一報を受けた海上保安庁は直ちに海上自衛隊に災害派遣要請を行う。

海上保安庁の精鋭ですら、対処が難しいと即断されるほどの事態である。

 

この海域に合計で3機のUS-2が2人の救出に向かうが、現場海域のコンディションが余りに悪く、1番機は燃料切れの恐れがあることから着水を断念し帰投。

2番機は周辺海域をしばらく旋回した後、意を決して4mの高さの波の中に着水を試み、そして無事に二人を救出して厚木に帰投した。

海自救難飛行隊ですら、一時は着水を諦めるほどの最悪のコンディションの中で着水し、要救助者を助け出した救難飛行隊員の勇気と練度の高さは筆舌に尽くせるものではないであろう。

ただただ、このような防人がいる我が国の自衛隊を心から誇りに思い、その誇り高い隊員たちを称賛する以上のことが思いつかない。

 

なお辛坊氏は厚木基地到着後、記者会見を開き海上自衛隊と海上保安庁の関係者に何度も謝罪と感謝の気持ちを述べ、涙ぐみ、声にならない声で最後にこう言った。

「この国に生まれてきて、この国の国民で良かった・・・」

 

鮮烈な印象を残した記者会見であったので、記憶に新しい人も多いかもしれないが、さらにこの時、辛抱の手には一つのワッペンが握られていた。

これは辛抱が、US-2の機内で隊員に名前を教えて欲しいと言った時、

「名前は教えられません」

と言われ、その代わりに自隊のワッペンを渡され、それを記者会見の時にも大事に握りしめていたものだ。

 

なんというか、カッコイイとか言うレベルではない。

生命の危険を顧みず、荒れ狂う海に飛び込み要救助者を助け出し、名前も名乗らずワッペンだけ残し去っていくなど、アメリカ映画でも出来すぎな設定である。

 

辛抱が泣きながら、「この国に生まれてよかった」と言ったのも、本当に心から同感だ。

この時辛抱たちを救助したのは71航空隊だが、救難飛行隊隷下の精鋭たちであればみなそうしたであろう。

そんな誇り高い男たちを隷下におき、田上は73航空隊の指揮を執っている。

 

さてそんな男たちを隷下におく田上もまた誇り高い海の男であり、そのキャリアは海上自衛隊の精鋭を預かるものとして、極めて充実したものになっている。

田上が航空学生を修了し最初に配属になったのは昭和62年の第121航空隊。

その後、平成4年の護衛艦「しらね」に移るが、しらねはヘリ搭載型の護衛艦であり、いわば昔で言うところの空母艦載機搭乗員だ。

海軍と海上自衛隊の誇りであり、そして現在の海上自衛隊でも、ヘリ艦載機は索敵や攻撃、情報収集など極めて幅広い分野で組織に貢献し、艦艇の目となり我が国の安全保障を確かなものにしている。

 

さらに田上は、護衛艦「ひゅうが」の副長兼飛行長という重責も経験している。

ひゅうがの副長というだけでもシビれる経歴だが、さらに飛行長として、我が国の最新鋭ヘリ  空母  搭載型護衛艦の飛行長、すなわち飛行隊長を務めていたというのだから、その統率力、技量、手腕と、あらゆる面が卓越した高級幹部であることが窺えるキャリアであると言えるだろう。

 

なお話が前後するが、田上が東日本大震災当時に就いていたポストは第21航空隊第211飛行隊長。

震災直後にひゅうがに乗り込み、そのまま宮城県沖のもっとも被害が大きい地区からSH-60Jで発艦、要救助者の発見に全力を尽くし、孤立する住民を近場の避難所に搬送するという災派(災害派遣)活動を行う。

この活動では多くの住民の生命を救い、また避難所に送り届ける活動に全力を尽くしていたが、しかしながら、生存者の発見と救助という任務はやがて、遺体の収容と搬送という悲しい任務に変わり始める。

そして活動開始から3日目だった。

海自の艦船が発見した遺体をヘリに収容し、安置所に搬送する任務に携わった時、2人の大きな遺体と、1人の小さな遺体がブルーシートに包まれヘリに運び込まれることがあった。

この時、ヘリへの搬入に携わった航空士が思わずつぶやいた言葉、

「一つ小さい・・・」

という言葉に思わず心が乱れたことを後日、朝雲新聞(自衛隊の準機関紙)に語っている。

 

一人でも多くの人の命を救うためにここに来たのに、遺体を運ぶ任務に携わることは辛い経験になったことは疑いようのないところだが、田上は講演会などで当時のことを振り返り、講演後には必ず、生命の大切さを繰り返し強調している。

 

そんな田上が救難飛行隊である73航空隊の司令職に就くというのは、まさに適任であり、これからも我が国の海の安全を、空から見守り続けてくれることだろう。

もちろん、田上のような救難飛行隊のお世話になることが無いに越したことはないし、安易な思いで彼らのお世話になるような事をするべきではない。

しかしながら、いったん事ある時には、誇り高い海の精鋭たちが命をかけて助けに来てくれる。

 

そう思えるだけで、海で働く男たちは今日も安心して仕事に携わることができる。

「この国に生まれて本当によかった」。

 

◆田上啓介(海上自衛隊) 主要経歴

昭和
62年4月30日 第121航空隊

平成
4年12月21日 護衛艦「しらね」
7年8月4日 第124航空隊
10年3月20日 第123航空隊
13年3月23日 第51航空隊
17年8月22日 第121航空隊
18年8月1日 海上幕僚監部防衛部運用支課部隊状況班長
20年8月20日 第51航空隊
22年12月20日 第21航空隊第211飛行隊長
24年3月5日 第22航空群司令部幕僚
25年8月20日 護衛艦「ひゅうが」副長兼飛行長
27年4月1日 第51航空隊訓練指導隊長
28年8月5日 第73航空隊司令

 

◆姓名判断

職人気質で完璧主義、与えられた仕事は几帳面に終わらせないと気が済まない人物に多く見られる相。

実力は申し分ないものの、社内営業をする意志がなく、時に実力が正しく評価されないことも。

一方で、持って生まれた基礎運が極めて高く、不運を感じることがない幸運な人生を送ることができる。

 

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的とし、軽量化処理やオリジナルからトリミングし切り取って用いているものがある。

【引用元】

防衛省海上自衛隊 第73航空隊公式Webサイト(顔写真)

http://www.mod.go.jp/msdf/tateyama/myweb7/sirei.htm

 

Pocket