海軍大尉であった橋本光雄 命は福島県双葉郡久之浜町出身。
昭和20年3月11日、陸軍記念日の翌日にインドシナ東方海上にて戦死した。
終戦までわずか5ヶ月足らずの時であった。
享年26歳。
心を籠めて書いた両親宛の遺書が内地に送られ、今も大事に肉筆が保管されている。
涙の出る限り泣いて下さい
光雄、このたび海軍予備学生に志願中のところ、採用予定者として一週間後の後、家郷を出でんとす。
世人或は云はん。
何も大学まで進みながら、最も危険なる航空に志願せずともよろしからんと。
されど大学は立身出世の為の大学にあらず。
祖国なくして大学なく、祖国なくして家もなし。
世人或は云はん。
光雄一人くらゐ志願せずともよろしからんにと。
されど皆かく考えるに至らば、最後には祖国を護る者、遂に一人も残せざるに至るべし。
光雄は祖国の急を救ふため、男子の本懐として雄躍征って参ります。
光雄が死ぬときは
天皇陛下萬歳
大日本帝国萬歳
と呼んだら、すぐ心の中で母ちゃんと叫びます。
心の中で呼んでも母ちゃんにだけは聞こえる様に呼びます。
人様の居らぬ所ではいくら泣いても良いです。
お父さんは怒るかも知れませんが、お父さんだって泣きたいのを男だからやせ我慢して居るだけでせう。
かまはぬからお二人で涙の出る限り泣いて下さい。
生涯(こしかた)を光雄(われ)の将来(ゆくえ)に捧げたる母が慈愛(なさけ)に何と報(こた)えん
昭和十八年九月一日
御両親様
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