山中敏弘は昭和36年4月生まれ、大分県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第28期の卒業で幹候65期、出身職種は普通科だ。
平成30年3月(2018年3月) 自衛隊体育学校長・陸将補のポストを最後に退役が決まった。
前職は第2師団副師団長であった。
なお、自衛隊体育学校長としての指導方針は以下の通りであった。
【統率方針】「任務完遂」
【要望事項】「元気」「前向き」「感謝」
我が国の平和と安全に貢献し続けた山中。
とても寂しいことだが、その退役がついに決まってしまった。
退役日は2018年3月27日。
一般の国民には、山中の名を知るものも、その活躍の足跡を知るものもほとんどいないだろう。
しかし山中は、自衛隊史上誰も経験したことがない困難な任務に正面から取り組み、成功させたキャリアの持ち主だ。
それは、第10次イラク復興支援群長として、サマーワからの自衛隊部隊の撤収任務を任されたというもの。
イラク戦争後のサマーワは、戦地と言っても過言ではないほどに過酷な場所であり、戦力が漸減していく撤退作業ほど、危険な任務はない。
この任務を任されるだけでも、山中に対する防衛省と制服組の特別の評価があったことは疑いようのないところだが、山中は見事にこの任務を完遂。
一人残らず、イラクから自衛隊員を連れ帰った。
自衛官生活の晩年こそ、体育学校長として大らかな指揮官の空気を纏っていたが、山岳部隊である第30普通科連隊長や、中央即応集団幕僚副長、第3師団幕僚長など、非常に緊張感のある部隊で指揮を執り続けた幹部であった。
イラク撤収の任務から考えても、非常に信頼の厚い、細心かつ豪胆な指揮官であったことが窺えるようだ。
その山中の自衛官生活最後の日は、2018年3月27日の火曜日。
体育学校が所在するのは、陸上自衛隊朝霞駐屯地だ。
そして朝霞駐屯地は、桜の名所として知られ、毎年桜まつりが開催されることでも知られている。
2018年の、東京-埼玉辺りの桜満開予想は3月24日。
おそらく、満開の桜に見送られながら、山中は朝霞駐屯地を後にすることだろう。
本当にお疲れ様でした。
山中陸将補の第二の人生が充実したものになりますことを、心からお祈り申し上げます。
【以上、2018年3月24日加筆】
※以下は2017年12月13日までに記してきた記事であり、最新の情報を反映していない。
2017年12月現在、自衛隊体育学校長を務める山中だ。
体育学校は、陸海空共通で運営される自衛隊組織の一つであり、自衛隊員として必要な体育能力や技能の向上、またそのために必要な研究を行う役割を担う。
元々は、1964年の東京オリンピックを意識して設立された機関でもあることから、自衛隊としてオリンピッククラスの選手育成を目的にし、もって国家国益に資することも目的とする側面も持ち合わせている。
その体育学校の責任者である山中だが、そのキャリアは非常に充実しており、エリート陸将補らしい自衛官人生を歩んできた。
連隊長経験は第30普通科連隊長。
豪雪地帯である新潟の新発田に所在することから、雪上での機動に優れた部隊であり、スキー徽章を保有するものも多い。
我が国の寒冷地帯に所在する部隊は例外無くと言っていいだろう、精強さで知られる部隊が多いが、この第30普通科連隊も粘り強さと精強さが持ち味の精鋭部隊だ。
そして山中はこの連隊長時代に、第10次イラク復興支援群長に着任。
隷下部隊を率いて灼熱のサマーワに赴任することになる。
そもそもが、危険と隣り合わせの戦後イラクの復興支援だ。
実際山中も、命の危険を感じるような経験を何度もしているが、特にこの第10次隊の難しさは、撤収部隊であったことである。
復興支援業務をすべて終え、現地政府との調整をしながら、反政府部隊からの攻撃リスクを可能な限り低減させ、全隊員を無傷で日本に連れて帰る。
山中に課せられた任務はこのように非常に危険なもので、戦国の時代から変わらぬ、「殿(しんがり)は命の危険性がもっとも高い」という中での支援群長であった。
そして山中は、見事にこの任務をやり遂げる。
一人の部下も失わず、戦地と言っても過言ではないサマーワから全部隊を連れての撤収に成功し、その存在感を大いに高める活躍をしてみせたわけだが、以降は富士学校主任教官、中央即応集団幕僚副長、第3師団幕僚長などの要職を歴任。
1等陸佐として様々な現場に赴き、あらゆるポストで大きな成果を挙げ続けた。
なお上記の画像は2006年当時、45歳前後の山中である。
中東の文化を尊重しヒゲを生やすのが、PKOで中東に赴く自衛官の原則だが、ヒゲのせいもあるだろうがやはり若々しい。
ページ冒頭の2017年現在のプロフィール写真に比べると、いかにも仕事盛りの1等陸佐といった風貌だ。
そして山中は、陸将補に昇る前の1等陸佐最後のポストでは熊本地方協力本部長も務めている。
地方協力本部長は、自衛隊を志す若者に対し自衛隊を紹介することを始め、早期退職制度で自衛隊を去るもの、あるいは任期付自衛官の再就職先を探す支援、また自衛隊に対する理解を深めて貰うためのあらゆる任務を行う。
いわば、自衛官にとっては唯一となる「営業活動」が必要なポストであり、高いコミュニケーション能力が無ければ務まらないポストだ。
山中はこのポストにある時にも、その才能を如何なく発揮。
平成26年度において、全国に50存在する地方協力本部から特に優秀な3本部にしか与えられない防衛大臣表彰(第1級賞状)を獲得する。
まさにあらゆる分野で我が国の国益に貢献し続け、顕著な成果を挙げ続けた結果として、平成27年8月に陸将補に昇任。
第2師団副師団長を務めた後、自衛隊体育学校長に着任した。
一方で、28期組の動向についてである。
2017年12月現在の陸上幕僚長は山崎幸二(第27期)。
その任期は、通常で考えれば2019年夏頃までと予想される。
そしてその後任は、おそらく28期組から選ばれる可能性が高い。
つまり、間もなく頂点に昇る同期が出る世代であり、それは取りも直さず、その他多くの同期にとっては退役の時が近いことを意味するものとなる。
体育学校長の補職は、これまでの慣例で考えると、このポストを最後に勇退することが多いポジションだ。
また山中の着任が2016年12月なので、同期が陸幕長に就くであろう時期に前後して、体育学校長としての任期に目処がつく。
このようなことを考え合わせると、体育学校長のポストは山中にとって、長かった自衛官人生最後の補職となる可能性が極めて高いだろう。
これほど顕著な成果を挙げ続け、我が国の国益に貢献してきた山中であっても、やがて退役の時が来てしまうというのは、自衛隊を精強に保つためとは言え、非常に寂しい思いだ。
今はただ、後進の育成に、最後になるかもしれない任務に全力で取り組む山中を心から応援したい。
そしてその活躍を、最後まで注目して追い続けたい。
◆山中敏弘(陸上自衛隊) 主要経歴
昭和
59年3月
陸上自衛隊入隊(第28期)
平成
7年1月 3等陸佐
10年7月 2等陸佐
15年7月 1等陸佐
15年8月 幹部学校付
16年8月 幹部学校教官
16年12月 第30普通科連隊長
18年4月 第10次イラク復興支援群長
18年7月 第30普通科連隊長
18年12月 富士学校主任教官
20年4月 中央即応集団幕僚副長
21年12月 第3師団幕僚長
24年3月 中部方面総監部防衛部長
25年8月 熊本地方協力本部長
27年8月 第2師団副師団長 陸将補
28年12月 自衛隊体育学校長
30年3月 退役
【注記】
このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。
主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。
自衛官各位の敬称略。
※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。
【引用元】
防衛省 自衛隊体育学校公式Webサイト(プロフィール画像)
http://www.mod.go.jp/gsdf/phy_s/general_colum.html
防衛省 防衛省の取り組み公式Webサイト(第10次イラク復興支援群長時の画像)
http://www.mod.go.jp/j/approach/kokusai_heiwa/iraq/iraqfukkou/gaiyou.html
防衛省 熊本地方協力本部公式Webサイト(防衛大臣表彰受賞時画像)
http://www.mod.go.jp/pco/kumamoto/dayori/dayori.html
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