末吉洋明(陸幕運用支援訓練部長・陸将補)|第33期・陸上自衛隊

末吉洋明(すえよし・ひろあき)は昭和41年12月生まれ、鹿児島県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第33期の卒業で幹候70期、出身職種は普通科だ。

平成30年8月(2018年8月) 陸上幕僚監部運用支援・訓練部長・陸将補

前職は統合幕僚監部運用部副部長であった。

(画像提供:陸上自衛隊富士学校公式Webサイト 岳友249号 ※PDF注意)

(画像提供:陸上自衛隊富士学校公式Webサイト 岳友244号 ※PDF注意)

2019年1月現在、陸上幕僚監部運用支援・訓練部長の要職にある末吉だ。

今も鹿児島弁が少し残る優しい語り口、60kgまで鍛え上げた筋肉質な体などが印象的な、同期1選抜(1番乗り)で出世を続ける最高幹部である。

その末吉について。

1選抜で出世をするような将官なので、その全てのキャリアが印象的なものばかりだが、あえて一つ挙げるとすれば、それは秋田駐屯地に所在する第21普通科連隊長のポストであろうか。

というのも、末吉がこのポストに着任したのが平成23年4月。

東日本大震災からわずか1ヶ月後のことであり、着任後直ちに、連隊長として現場に入り、非常にタフな環境で指揮を執っているからだ。

なおこの際に、第21普通科連隊が受け持った担当地域は岩手県の釜石市で、東日本大震災でもっとも被害が大きかった市区町村の一つである。

人口の実に3%を越える、1300人以上もの方が死亡(もしくは行方不明)となった、甚大な被害を受けた地域だ。

末吉は釜石に赴くと、小中学校の校庭を間借りし隷下部隊を野営させ、直ちに行方不明者の捜索、被災者の支援及び復旧活動を開始。

インフラ復旧に努め、給水、食事、医療、洗濯、入浴など、人が生きていく上で必要なあらゆる支援活動を展開した。

その活動は困難を極めたが、極寒の寒さの中、冷えた缶メシをかじりながら野営し、被災者のために献身的に活動する末吉以下隊員たちの働きは、本当に凄いものだった。

21普連に限らず、あの時の自衛隊の活動は「人はここまで、人のために尽くせるのか・・・」と、神々しささえ感じるものであったが、この釜石での自衛隊の活動は鬼気迫るものがあり、そのため多くのエピソードが生まれた地域にもなっている。

それだけ、この21普通科連隊が成し遂げた働きが大きかったということの証左ではあるが、そんな一例をご紹介したい。

末吉は当初、釜石市の甲子小学校に野営し活動を行っていたものの、手狭な小学校のグラウンドを占拠したまま活動をすると、復旧に向かいつつある小学生の授業の妨げになると判断した。

そしてより広い、近場の甲子中学校のグラウンドに野営場所を移すことを決め、撤去の挨拶のために校長室を訪れる。

するとそこに待っていたのは、甲子小学校の多くの子供たち。

皆がその手に手紙を持ち、自衛隊への感謝の気持ちを伝えようと大挙して待ち受けていたものだった。

そして、生きる勇気を自衛隊から貰っていること。

友人や家族も死んでとても辛いけど、自衛隊が支えてくれるから頑張れること。

自分も大きくなったら自衛官になりたいと、自衛官になって皆さんのように地域のために尽くしたいと思っていること。

被災し心身ともに傷ついている子供たちであるにも関わらず、こんな心からの感謝の言葉を次々に末吉に読み上げ、聞かせてみせた。

後日末吉はこの時のことを振り返り、

「今でも思い出すと、ちょっとうるっとしてしまいますね・・・」

と、人の良さそうな笑いを浮かべていたのが印象的だ。

そしてこの活動を通して、自衛官としての使命を再確認し、子供たちや被災者、国民に対し、その責務を必ず果すことを改めて固く誓った想いを述べている。

33期組1選抜のエリートには、こんな意外な連隊長時代の思い出が、隠されている。

では、そのようなエピソードを持つ末吉とはこれまでどんなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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