岩村公史(いわむら・きみひと)は昭和37年4月生まれ、鳥取県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第29期の卒業で幹候66期、出身職種は普通科だ。
平成30年8月(2018年8月) 第9師団長・陸将
前職は第12旅団長であった。
(画像提供:陸上自衛隊第9師団公式Webサイト)
2019年2月現在、東北の強兵をまとめる第9師団で、師団長を務める岩村だ。
戦前には「国宝師団」とも称された第8師団の伝統を引き継ぐなど、近代における我が国の存亡をかけた戦いにおいて、常に命知らずの活躍を見せた強兵の遺志を守る。
そのような、精強な師団を率いる岩村だ。
米国海兵隊指揮幕僚大学に学び、またゴラン高原派遣輸送隊、イラク復興支援隊長を務めるなど、豊富な海外経験を持ち合わせる。
また第1空挺団長を務めた経験を誇るなど、機動力と突破力が持ち味の陸将だが、中でも印象深いポストと言えば、前職の第12旅団長であろうか。
第12旅団は我が国で唯一の空中機動旅団であり、迅速な展開と打撃力で敵を、その戦闘初期の段階で制圧する役割を担う。
第1空挺団とともに、我が国の尖兵となって楔の役割を果たすが、まさにこのポジションにふさわしい猛将の将官だ。
その一方で、冷静沈着で的確な状況判断にも優れているからこそ、非常に大きな危険を伴うゴラン高原やイラク復興支援にも、指揮官として赴いているのだろう。
指揮官がただのイノシシなら、隷下部隊は決して無傷では済まされない。
ところで、岩村がイラク復興支援隊長として現地に赴任した2005年当時は、イラク戦争が終結したばかりであり、まだまだ残存勢力に依る散発的な戦闘が起きていた頃合いだ。
時には、陸自の宿営地にロケット弾が着弾するような政情下ですらあった。
そのような中、さすがに岩村はこの任務に臨むにあたり、ご家族と令夫人に遺書を認めてから現地に向かったことを、帰国後に産経新聞のインタビューで語っていたことが印象的だ。
要旨その内容は、
・子供たちには国の役に立てるような仕事に就いて欲しい
・妻のこれまでの献身的な仕事に感謝している
・自分亡き後は、家族のことをよろしく頼む
と言ったようなものであったそうだ。
そして自分が死ぬまでは絶対に開封しないことを厳命して現地に向かったそうだが、無事帰国しても妻は遺書を返そうとしない。
どうやら開封し読んでしまったらしく、帰国後、妻の手料理が更に良いものになったと、堂々と惚気けているのが印象的であった。
命のリスクを賭けて任務に臨む自衛隊員たちにしか味わえない、家族との愛情あふれる一コマであった。
また岩村には、一つの信念がある。
それは、第1空挺団長時代の指導方針である「強靱無敵」という言葉に込められている。
岩村は常々、精強な部隊を日本刀の強さに例える。
日本刀は強く、そしてしなやかだ。しなやかであるゆえに折れない。
強い部隊もこれと同じであり、強靭な肉体と精神を支えるものは家族との絆であり、個人としての幸せそのものだと話す。
個人としての幸せが人の心をしなやかにして、初めて部隊は日本刀のような強さを備えることができる。
岩村はそう信じている。
またこの場合の「強靱無敵」とは、無類の強さで敵を蹴散らすという意味ではない。
敵を作らないこと、そして敵から攻撃を受けないよう環境を整えることこそが真の無敵であり強さであると、岩村は信じている。
このキャリアを誇り、見たまんま猛将タイプの強面の男の口から出る言葉とは思えないほどに、その指導方針は愛情深く、武力を究極の手段と捉える。
戦後我が国の平和と安全を支えた自衛隊の最高幹部らしい、その価値観を体現しているとても頼もしい最高幹部だ。
なお余談だが・・・
イラク復興支援隊長を務めた幹部は皆例外無く、中東の文化を尊重して髭をはやして現地に赴いている。
「ヒゲの隊長」で妙に有名になった現参議院議員の佐藤正久(第27期)だが、あのヒゲは別に佐藤に限ったものではない。
しかし中には、ヒゲがおかしく見える顔立ちの幹部もやはりいるのだが・・・。
誰とは言わないが2019年2月現在、西部方面混成団長を務めている古庄信二(第33期)の当時のヒゲ顔は全く似合っておらず、とてもかわいい(笑)
そして岩村も、現地に赴く時にはヒゲ面だったのだが、こちらは完全に、ヤクザの若頭である。
迷彩服がもう、自衛官ではなく違う意味にしか見えない。
街で前から歩いてきたら、道を開けるというレベルではない物騒な印象であった。。
しかしさすがに、師団長・陸将に昇ってからはずいぶんと大人になった印象である。
(って、大人になるの遅すぎないだろうか・・・)
では、そんな岩村とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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