平田隆則(ひらた・たかのり)|第34期相当・水陸機動団長

平田隆則(ひらた・たかのり)は昭和39年7月生まれ、三重県出身の陸上自衛官。

高校を卒業後、昭和60年3月に自衛隊に入隊し平成2年に幹部候補生学校に入校しているので、防衛大学校第34期相当と言うことになる。

出身職種は普通科だ。

 

令和元年12月(2019年12月) 水陸機動団長兼ねて相浦駐屯地司令・陸将補

前職は西部方面総監部幕僚副長であった。

(画像提供:陸上自衛隊水陸機動団公式Webサイト

満を持してご紹介をする、管理人(私)がぜひご紹介をしたかった平田隆則・陸将補のご紹介だ。

2020年1月現在、我が国の国防の要である”日本版海兵隊”・水陸機動団を率いる。

水陸機動団の第2代となる団長であり、有事の際に離島奪還を指揮する、文字通り国家の命運をその双肩に担う男だ。

 

ではなぜ、その平田を特にご紹介したかったのか。

それは、平田の最終学歴は高校卒であるにも関わらず、自衛隊の最高幹部である将官にまで昇りつめた、非常にレアな存在であるからだ。

詳細は明らかではないが、平田の生年月日は昭和39年7月なので、よほどのことがない限り昭和58年3月に高校を卒業していると思われる。

そして陸上自衛隊に入隊をしたのが昭和60年3月なので、高校卒業後2年間、なんらかの寄り道をしている。

 

なお、水機団長着任を伝えるマスコミ報道では、高校卒業後に陸上自衛隊に入隊と紹介されているので、

(1)なんらかの理由で高校を卒業した時の年齢が20歳であり、卒業後ただちに自衛隊に入隊した

(2)2年間、無職でプラプラしてから自衛隊に入隊した

(3)マスコミ報道が適当でいい加減なだけで、実は2年間民間企業で仕事、もしくは大学に進学してから退学し、自衛隊に入隊した

の3択ということになりそうだ。

 

いずれにせよ、平田は曹士(曹=下士官、士=一般兵)として陸上自衛隊に入隊し、その後、厳しい任務の傍らで幹部候補生採用試験に向けて猛勉強を開始。

そして、5年に及ぶ曹(士)の経験の後に幹部候補生として採用され、最高幹部に昇りつめているということになる。

文字通り、現場を知り尽くした上で、部隊の最高指揮官にまで昇りつめた、これ以上は無いイケてる最高の”オヤジ”である。

 

ところで、このような人事制度を陸上自衛隊が持っていることを管理人はとても誇りに思っているといえば、どれだけの人から共感をもらえるだろうか。

軍事組織における高級幹部とは、近代以降、列強では「貴族の指定席」であった。

そして下士官や兵が、それら貴族の階級である佐官や将官に昇り、同じテーブルについて食事をするなど、絶対にありえないストーリーであった。

しかし我が国は、列強諸国がそんな価値観で軍事組織を運用していた頃から、家柄や身分に関わりなく有能な者を昇級させ、その一部を幹部に登用し続けてきた歴史を持つ。

 

そのもっとも象徴的な人物といえば、当時、「世界最強の陸軍国家」であるロシアを破った際の参謀総長であった、児玉源太郎であろうか。

少し補足すると、児玉源太郎は日露戦争において、陸軍の最高指揮官である大山巌を支える参謀総長として、戦争全般の指揮を取った軍人だ。

今でいうと陸上幕僚長か、あるいは有事の際に全軍を統率する統合部隊が組織されるのであれば、その幕僚長の役割ということになる。

勢力(人数)、装備、経験、軍事費の全てにおいて日本軍を大きく上回るロシア軍を相手に、作戦を立案しその実行を指揮した児玉という男であったが、実はまともな高等教育を受けたことがない。

プロイセン(ドイツ)から”お抱え軍人”であるメッケル少佐を招き、陸軍大学校を設立した際には初代校長に着任しているが、その際には校長でありながらメッケルの授業に生徒として参加したエピソードが残されているほどの、「低学歴な」軍人であった。

さらに、陸軍に入隊した際の階級も半隊(分隊規模)の指揮官であり、下士官の身分である。

 

しかしそんな児玉は、戊辰戦争において設立初期の日本陸軍の一員として戦場に立ち、ある時には指揮官が戦死した後に部隊の指揮を強引に引き取り、またある時には腕や胸に敵の銃弾を受けて瀕死の重傷を負って生死の境をさまようなど、常に最前線で命知らずの働きを重ね続けた。

そして戦いのたびに見せた類まれな勇気と組織への献身的な貢献、混乱した組織を立て直し反撃に成功するなどの優れた統率能力を発揮するなど、上層部にまでその噂は聞こえるようになると、なんと37歳の若さで少将に昇った・・・・

嘘のような本当の話である(^_^;)

 

そんな男が、世界最強と言われたロシア陸軍を破り、世界を驚かせた。

そしてこの組織力と人材の抜擢こそが、我が国を短期間で世界の列強に押し上げた原動力となり、アジアで数少ない欧米からの植民地支配を逃れる国力の源になった。

 

その後、組織の官僚化が進み、士官学校・兵学校や陸海軍大学校時代の成績で幹部の進級が決定される時代になると、我が国の陸海軍がどのような状況になったのかについては、敢えて言及しない。

ただ、その結果として日本は有史以来初めて、国家の独立を失う7年間を経験した。

 

軍事組織においては、学歴は指揮官の能力に直ちに直結するものではない。

もちろん、高い学歴(履修成績)が一般に事象(作戦)の再現性や確実性を担保する物差しになることまでも否定するものではないが、民間企業でもそうであるように、軍事組織においても、現場経験に優れていることは何よりも大きな武器になるはずだ。

であれば、大事なことは知見に優れている者、現場経験に優れている者、その双方に優れている者などがバランスよく、組織の意思決定に参加することではないだろうか。

そのバランスを欠いた旧軍において、”頭の良い人たち”が立案した実行不可能な作戦の下で、どれだけの勇敢な曹兵の命が戦うことすら無く失われてしまったのか。

その事に思いを馳せると、私たち一般国民は「正しく敗戦を理解し、正しく組織運営に活かす」ことに、もっと真剣にならなければならないと、改めて思っている。

 

やや話が大きくなってしまったが、そういった意味で、現場に精通する「学歴のない」平田の将官昇任と、国家の命運をも左右する重要ポストへの着任は、本当に一自衛隊サポーターとして心からうれしく思っている。

そして、平田の昇任と人事を決心した実務担当者・責任者も同様に、とても素晴らしい仕事をしたと思っている。

こんな人達が、我が国の国防を目立たないところで支えていることを、心から誇りに思いたい。

 

では、そんな平田とはこれまでどんなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

(画像提供:陸上自衛隊水陸機動団公式Webサイト

その平田が陸上自衛隊に入隊したのは、先述のように昭和60年3月であり、陸曹もしくは陸士としての入隊である。

そして幹部候補生として任官したのが平成2年であったので、年齢を考えると昭和39年度の生まれ(ストレートの場合、防大31期)に比べ”3年遅れ”でのリスタートだ。

にも関わらず、1佐への昇任は21年1月であり、幹候71期として1選抜(一番乗り)となるスピード昇任を果たしている。

(画像提供:陸上自衛隊水陸機動団公式Webサイト

その後、第24普通科連隊第3中隊長を経て、平成22年12月に中央即応集団付になると実質的に特殊作戦群の任務を与えられ、そして24年4月には、第4代となる特殊作戦群長に着任。

率直に言って、その後のポストは研究本部主任研究開発官、東北方面総監部防衛部長「だけ」であり、1佐として中央(陸上幕僚監部、統合幕僚監部)の課長職はおろか、班長ポストすら経験していない。

にも関わらず、30年3月には将官(陸将補)に昇任してしまい、西部方面総監部幕僚副長に着任すると、後職として水陸機動団長兼ねて相浦駐屯地司令を任されることになった。

ハッキリ言って、西方の幕僚副長も相浦(水機団長)の”テスト”を兼ねて、近場に配属するエクスキューズであったのではないだろうか。

それほどまでに、このポストを任されるべくして任されたのが、平田ということになりそうだ。

 

なお少し補足すると、特殊作戦群はもはやレジェンドと言ってもよい元陸上自衛官、荒谷卓(第26期相当)が初代群長を務め、作り上げた組織だ。

1999年の能登半島沖不審船事件の発生とその反省を受けて、海上自衛隊に特別警備隊が発足した3年後となる2004年3月、対テロ戦闘や特殊戦闘のエキスパートを育成することを目的に立ち上げられた。

その任務内容、能力、装備などは極めて秘匿性が高いために、一般人にわかることはほとんどない。

ちなみに管理人(私)は習志野自衛隊協力会の会員でありイベントごとでは習志野駐屯地に足繁く通っているが、特戦群(特殊作戦群)の庁舎がある一角には駐屯地内でさらに警衛が立っており、近づくことすら許されない。

非常に緊張感のあるエリアになっていることが印象的な組織だ。

平田はそんな組織でも指揮を執り、そして中央での要職を全く経験すること無く将官に昇り、第2代となる水陸機動団長にも着任した。

まさに、学歴などという脆弱なモノサシに頼ること無く、自身の能力だけで昇りつめてきた「本物の現場指揮官」であると言ってよいだろう。

そしてその人事こそが、この地域に野心を持つ  中国人民解放軍  諸外国へのメッセージでもある。

ぜひ、その活躍には今後も注目してほしいと願っている。

 

では最後に、その平田と同期である34期組の人事の動向について見てみたい。

34期組は、最初の陸将補が選抜されたのが2015年夏の将官人事であった。

そして最初の陸将が選抜されるのが2021年夏の将官人事の予定なので、陸将補が同期の出世頭ということになる。

そして2020年1月現在でその任に在るのは、以下の幹部たちだ。

 

荒井正芳(第34期)・陸上幕僚監部防衛部長(2015年8月)

柿野正和(第34期)・北部方面総監部幕僚長兼ねて札幌駐屯地司令(2015年8月)

小林弘樹(第34期)・陸上幕僚監部装備計画部長(2015年8月)

橋爪良友(第34期)・西部方面総監部幕僚長兼ねて健軍駐屯地司令(2015年8月)

佐藤真(第34期)・第1師団副師団長兼ねて練馬駐屯地司令(2016年3月)

鳥海誠司(第34期)・統合幕僚監部総務部長(2016年7月)

松永康則(第34期)・中部方面総監部幕僚副長(2017年3月)

大場剛(第34期)・第1特科団長兼ねて北千歳駐屯地司令(2017年8月)

平田隆則(第34期相当)・水陸機動団長兼ねて相浦駐屯地司令(2018年3月)

今村武(第34期)・北部方面総監部幕僚副長(2019年4月)

※肩書はいずれも2020年1月現在。( )は陸将補昇任時期。

※2019年夏以降の将官人事で昇任した陸将補については、一部確認中。

 

以上のように、まずは荒井、柿野、小林、橋爪の4名が頭一つ抜けた状態にあり、第34期の最高幹部人事の中心になって行くことになりそうだ。

 

平田については年齢(55歳)もあり、あるいは現職が最後の補職となる可能性も、あるのではないだろうか。

2年程度が予想される最高幹部の任期を考えると、水陸機動団長を最後に長かった自衛官生活に別れを告げて、制服を置くことになる可能性も高いと言えそうだ。

というよりも平田のキャリアを考えると、現場に生き、現場のために献身的な活躍をしてきた幹部だからこそ、この唯一無二の現場指揮官として駐屯地の正門から送り出される平田を見たい。

平田には、そんな自衛官生活最後の日がふさわしいと言えば、言い過ぎだろうか。

 

いずれにせよ、我が国の命運を左右するこの極めて重要な組織は、平田に任されることになった。

その活躍にはますます注目し、そして応援していきたいと願っている。

 

※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。

(画像提供:自衛隊熊本地方協力本部公式Webサイト

◆平田隆則(陸上自衛隊) 主要経歴

昭和
60年3月 陸上自衛隊入隊

平成
2年3月 幹部候補生学校入校(第71期・防大第34期相当)
年 月 第24普通科連隊第3中隊長
21年1月 幹部候補生学校付 1等陸佐
21年7月 陸上幕僚監部広報室員
22年12月 中央即応集団付
24年4月 特殊作戦群長(習志野)
27年4月 研究本部主任研究開発官
27年8月 東北方面総監部防衛部長
30年3月 西部方面総監部幕僚副長 陸将補

令和
元年12月 水陸機動団長兼ねて相浦駐屯地司令(相浦)

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