門倉光慶は防衛大学校第39期卒業で、幹候85期の航空自衛官。
防大卒業以来、航空自衛隊の最精鋭・航空救難団の現場一筋で過ごしてきた高級幹部だ。
平成29年8月(2017年8月) 航空救難団飛行群新潟救難隊長兼ねて新潟分屯基地司令・1等空佐
前職は幹部学校航空研究センター運用理論研究室長であった。
2017年9月現在で門倉が補職されている航空救難団飛行群新潟救難隊長のポストは、航空自衛隊の航空救難団の隷下にある部隊だが、この航空救難団、海上自衛隊の救難飛行隊と併せ、我が国で最後の砦と言われる救難組織だ。
その本来任務は、航空自衛隊のパイロットが遭難あるいは事故などで救助を求めている際に、あらゆる困難を排除してその救出に向かうことを主任務としている。
当然のことながら、航空事故が発生する環境とは一般に過酷な自然環境や自然状況であることから、普段の訓練ではそれら困難な状況を想定し、極めて厳しい環境下で訓練を行うことで知られる。
そして、これら強い心と精神力、強靭な肉体を併せ持った精鋭たちは、平時においては民間の救難活動や救命救急活動にも従事する。
しかし航空救難団が出向く現場は、警察や消防はもちろん、海上保安庁でもその対応が困難であると任務を諦めた現場であり、地方自治体や海上保安庁からの出動要請を受け現場に駆けつけることがほとんどだ。
少し気を抜くと確実に命を落とす極限の場にあって、平常心を維持し、任務を完遂する隊員たち。
そんな「本物のプロ」たちを束ね、救難活動に従事する責任を負っているのが門倉のポストとなる。
その活躍の現場は荒れ狂う海上から猛吹雪の冬山まで場所を選ばず出動するが、航空自衛隊の航空救難団には、海上自衛隊のUS-1、US-2のような飛行艇は存在しない。
また同様に、海上自衛隊救難飛行隊には、航空救難団が持つ捜索機U-125Aが配備されていないことから、非常時にはこれら機能を補完し合いながら救難活動に当たる。
なお、フリーアナウンサーの辛坊治郎氏が盲目のヨットマンHIRO氏と太平洋横断航海に出かけ、嵐に巻き込まれ遭難信号を出した際に救出に駆けつけたのは海上自衛隊の救難飛行隊であった。
波高4mの荒れ狂う海に着水し、漂流するライフラフト(救命ポッド)のそばまで寄せることが出来るのは、さすがに海上自衛隊のUS-2のみであるためであったが、遭難の質に応じて、航空自衛隊と海上自衛隊の精鋭たちはそれぞれの現場に向かうことになる。
また航空救難団は、海上や山岳の遭難の現場だけでなく、その高い機動性を活かして、大規模災害の現場に直接着陸し、現場の状況把握にあたることも多い。
上記画像の回転翼機はUH-60Jだが、パイロットの練度によってはこのような最悪の状況にある、狭い場所に着陸することも可能だ。
なお東日本大震災の際、津波に呑まれ身動きが取れなくなった病院で一人の女性の陣痛が始まり、間もなく出産が見込まれるにも関わらず、十分な医療対応ができないということがあった。
この時、陸上自衛隊所属のUH-60Jがその病院の屋上に駆けつけ、屋上地面から数センチの高さでホバリングし続け妊婦を収容し、首都圏の病院に搬送する様子の一部始終が放映されていたのを記憶してる人も多いかもしれない。
回転翼機がその荷重の全てを掛ける設計になっていない建物には着陸ができず、なおかつ震災で基礎がもろくなっていることが予想されたための苦肉の策だが、当時、手すりや貯水タンクなど、障害物の隙間をぬって僅か数cmの高さでホバリングし、停止し続けるUH-60Jの姿に、多くの人たちが改めて、自衛隊の練度の高さに驚愕の声を上げた。
さすがにあの様な運用は想定されていないとは言え、命令されれば「できませんとは言わない」のが、この航空救難団の精鋭たちだ。
あの時の陸自機と同様、場合によってはそれよりも危険な災害現場に駆けつけ、私たち国民の生命を守るために日夜奮闘し続けている。
そのような精鋭を率いる門倉だが、その防衛大学校卒業年次は39期。
昭和47年(度)の生まれと思われるため、高級幹部とは言えまだ45歳の「若手」だ。
1等陸佐としてもっとも現場で活躍をする時であり、このあと誰が同期の1番手で空将補に昇るのか。
その時期はおそらく2020年頃と思われ、まだ将補人事の予想をするような時期でもなく、先のキャリアを見通すことは不可能で、また予想をするようなものでもないであろう。
航空救難団の現場で培った強い精神力と熱いハートで、この先空将補に昇り現場を離れるようなことがあっても、ますます活躍してくれることを心から期待したい。
◆門倉光慶(航空自衛隊) 主要経歴
平成
7年3月 防衛大学校卒(第39期・85幹候)
13年 航空救難団飛行群新潟救難隊
16年 航空救難団司令部防衛部
17年 幹部学校(指揮幕僚課程)
19年 航空幕僚監部防衛部防衛課
20年 幹部学校教育部
22年 航空救難団司令部防衛班長
24年 航空救難団飛行群那覇救難隊長
25年 航空救難団司令部防衛部長
27年 幹部学校(幹部高級課程)
28年 幹部学校航空研究センター運用理論研究室長
29年8月 航空救難団飛行群新潟救難隊長兼ねて新潟分屯基地司令
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【注記】
このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。
主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。
自衛官各位の敬称略。
※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。
【引用元】
防衛省航空自衛隊 新潟分屯基地公式Webサイト(顔写真)
http://www.mod.go.jp/asdf/niigata/greeting/kitishirei/index.html
防衛省航空自衛隊 航空救難団公式Webサイト(UH-60J写真)
http://www.mod.go.jp/asdf/arw/katsudoujisseki/kyuusyuuhokubuooame.html
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