平塚弘司は昭和36年7月9日生まれ、福岡県出身の航空自衛官。
最終学歴は早稲田大学理工学部卒業であり、昭和61年3月に航空自衛隊に入隊しているので幹候は76期、第30期相当ということになる。
出身職種は飛行で、F-15戦闘機のイーグルドライバーだ。
平成30年3月(2018年3月) 航空支援集団副司令官・空将補のポストを最後に退役となった。
前職は第1航空団司令兼浜松基地司令であった。
早稲田大学を卒業し、航空自衛隊に入隊。
パイロットの最難関であるイーグルドライバーとして活躍後、空将補に昇り詰めた平塚であった。
30期組である平塚がなぜもう退役?と思われるかも知れないが、実は平塚は昭和36年7月生まれであり、ストレートであれば第28期の年齢に相当する。
そのため、幹候76期の30期相当でありながら、2018年3月での退役となった。
そのキャリアは極めて輝かしいが、中でももっとも印象深い活躍は、2014年から務めた初代の航空戦術教導団司令のポストだ。
航空戦術教導団は諸職種に横串を通し、実戦を想定した教導を行う組織だが、この新体制を構築したことで、航空自衛隊はさらに、有事に対する対応能力を上げる足場固めを作ることが可能になった。
平塚はその初代司令であったわけだが、この新しい試みに目鼻を付け、機能する組織に仕上げた功績は極めて大きい。
きっと平塚自身も、思い出深い補職であったのではないだろうか。
その平塚も、2018年3月27日、本日(追記している当日)を持って航空自衛隊を去る。
長い間、本当にお疲れ様でした。
暖かな春の日に、満開の桜の下で、平塚の歓送会が盛大に行われることだろう。
明日から始まる平塚空将補の第二の人生も、更に充実した素晴らしいものとなりますように。
【以上、2018年3月27日加筆】
※以下は2018年2月22日までに記してきた記事であり、最新の情報を反映していない。
一般大学(早稲田大学理工学部)を卒業後に航空自衛隊に入隊し、空将補まで昇っている平塚だ。
そのキャリアは極めて充実しており、特筆するものだらけの要職を歴任してきた最高幹部である。
余りに充実したキャリアであるがゆえに、昭和59年3月に大学を卒業した後、航空自衛隊に入る昭和61年3月までの2年間何をしていたのか、その謎の空白の方が興味があるが、こちらはどれだけ調べても不明であった。
なおこのため平塚は、年齢だけで言うと本来、ストレートであれば第28期相当の幹部であったことになる。
航空支援集団副司令官、第1航空団司令兼ねて浜松基地司令、航空総隊司令部航空総隊戦術官、情報本部画像・地理部長、さらには米国防衛駐在官など、どれ一つとっても空自の幹部として、極めて重要なポストばかりを歴任してきた。
そのキャリアの中で敢えて取り上げたい話題に悩んだところだが、やはり平塚のキャリアの中で、もっとも注目したいのは平成26年8月から務めた、航空戦術教導団の初代司令ポストであろう。
新しい組織の立ち上げ、新しい仕事への取り組み、新しい組織文化の創造は初代司令にしかできないからだ。
なお余談だが、平塚の好きな言葉(自作)は、「向かい風は空自の友」である。
軍用機に限らず航空機は、離着陸に際し向かい風を利用して揚力(浮かび上がる力)を発生させる。
転じて、人生においては向かい風を味方につけて困難を楽しめと説く。
まさに、新組織の立ち上げに必要な心構えであり、困難な仕事は平塚にとって、楽しいチャレンジであったに違いない。
なお、その航空戦術教導団の役割である。
平塚はこの組織を「教導団ではなく、戦術団と呼んで欲しい」と、初代司令としての考えを語っていることが印象的だが、まさにその組織意義はこれに尽きる。
すなわち航空戦術教導団は、それまで空自内において、飛行教導隊、高射教導隊(基地防空教導隊)、基地防衛教導隊などの各教導隊が別々に行っていた戦闘演習などを、統一的に行おうとする組織だ。
従来は例えば飛行教導隊が、その隊の想定下での戦闘訓練を行い、必要な戦術を構築・訓練を行うという方法であった。
しかし実戦では、言うまでもなく戦闘機隊は、高射隊を始めとした他の兵科とともに協働して戦うことになる。
敵戦闘機の領空侵入一つをとっても戦闘機で対応するのか高射部隊で対応するのか。
それぞれがバラバラに想定をしていれば、協働が十分に機能するものではない。
いわばこの組織は、兵科間に横串を通し、同一目的の下で教導を行うことで統一的な戦術に向かって練度を高めて行くことを担う組織である。
これまで無かったことが不思議にも思える役割ではあるが、縦割りには縦割りのメリットと効率もあった中での、新しい試みである。
物理的に、それぞれの基地同士が遠方で離れているなど、現実的に運用が難しいものであったが、それでも平塚はこの仕事に目鼻を付け第1航空団司令に栄転。
さらに航空支援集団副司令官に昇り、要職を歴任し続けている。
なお、その平塚の昇任と第30期組の状況についてである。
平塚の航空自衛隊入隊は、先述の通り昭和61年3月。
1等空佐に昇ったのが平成17年1月だったので、30期1選抜(1番乗り)のスピード出世だ。
空将補に昇ったのは平成25年8月だったので、こちらは同期1選抜に比べ2年の遅れとなったが、そもそも航空自衛隊では将官に昇る数が非常に少なく、1選抜で空将補に昇ることが、直ちに空幕長候補になることを意味しない。
1選抜2年遅れであれば超がつくスーパーエリートであり、スピード出世での空将補昇任だったと言って良いだろう。
なおその30期組は、2017年夏の将官人事で最初の空将が選抜された年次にあたる。
そして2018年2月現在で、30期組で空将にあるものは以下の通りだ。
金古真一(第30期)・中部航空方面隊司令官(2017年8月)
井筒俊司(第30期)・西部航空方面隊司令官(2017年8月)
上ノ谷寛(第30期)・南西航空方面隊司令官(2017年12月)
※肩書はいずれも2018年2月現在。( )は空将昇任時期。
まずはこの3名が、30期組の空将として空自の舵取りを担うことになった。
いずれも凄いキャリアの持ち主ばかりであり、間違いなく航空自衛隊を、より精強な組織へと導き、我が国の国防に大きく貢献してくれることであろう。
平塚についても、その見事過ぎるキャリアから考え、まだまだ要職を歴任し活躍してくれることは間違いのない最高幹部だ。
これからもその動向には注目をし続け、そして応援していきたい。
※
本記事は当初2017年8月2日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年2月22日に整理し、改めて公開した。
◆平塚弘司(航空自衛隊) 主要経歴
昭和
61年3月 航空自衛隊入隊(第30期相当)
62年2月 飛行教育集団司令部付、操縦課程
平成
2年4月 第6航空団(小松)
5年5月 飛行開発実験団飛行実験群(岐阜)
9年1月 3等空佐
11年3月 第2航空団飛行群(千歳)
12年7月 2等空佐
12年8月 航空幕僚監部人事教育部補任課(市ヶ谷)
15年2月 中央業務隊付
17年1月 1等空佐
17年6月 米国防衛駐在官(在米国日本大使館)
20年7月 航空幕僚監部運用支援・情報部情報課付(市ヶ谷)
20年8月 航空自衛隊幹部学校計画課(目黒)
20年12月 航空幕僚監部防衛部防衛課防衛調整官(市ヶ谷)
21年7月 第7航空団飛行群司令(百里)
23年4月 北部航空方面隊司令部防衛部長(三沢)
24年4月 情報本部画像・地理部長(市ヶ谷)
25年8月 航空総隊司令部航空総隊戦術官(横田) 空将補
26年8月 航空戦術教導団司令(横田)
27年8月 第1航空団司令兼ねて浜松基地司令(浜松)
28年12月 航空支援集団副司令官(府中)
30年3月 退役
【注記】
このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。
主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。
自衛官各位の敬称略。
※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。
【引用元】
防衛省航空自衛隊 浜松基地公式Webサイト(遠州灘第318号、328号、329号より)
http://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/enshunada/index.html
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