本吉幸則(もとよし・ゆきのり)は昭和44年12月1日生まれの陸上自衛官。
防衛大学校第36期の卒業*で幹候73期、職種は機甲科だ。
平成29年8月(2017年8月) 第6戦車大隊長兼大和駐屯地司令・2等陸佐
前職は富士学校勤務であった。
(画像提供:陸上自衛隊東北方面隊公式フェイスブック)
(画像提供:陸上自衛隊第6師団公式Webサイト)
2019年1月現在、東北の守りの要・第6師団隷下の第6戦車大隊で大隊長を務める本吉だ。
宮城県の大和駐屯地に所在する部隊で、74式戦車と16式機動戦闘車を共に運用し、機動力と火力を発揮する。
ただ、冒頭から少し寂しいお話になるが、この師団唯一の主力戦車部隊。
間もなくして、その長かった歴史に幕を閉じることが決定されている。
2019年3月に、宮城県の多賀城に所在する第22普通科連隊をベースにした第22即応機動連隊が発足するのに伴い、その隷下の機動戦闘車部隊に編入されるためだ。
本吉はその最後の大隊長ということになり、昭和29年にその産声を上げた第6戦車大隊は、M24 軽戦車の運用から始まった64年の歴史を終えることになる。
長かったその歴史の中で、第6戦車大隊は本当に様々な場面で、我が国の平和と国民の安全・安心のために力を尽くしてくれた。
直近では、平成28年4月に発生した熊本地震の際に話題となったのが、高速道路を熊本目指し、長駆する第6戦車大隊の車列であった。
この際には、救援資材を満載したトラックだけでなく軽装甲機動車、さらに偵察用バイクまでもが被災地に向かい、東北自動車道から熊本を目指している。
ところでなぜ、わざわざ東北宮城から熊本まで、救援に赴くのだろうか。
長駆するには非常に大変なバイクなども貨物にして積載するか、偵察隊だけでも近隣の部隊から駆けつければよいのではないか。
そんなふうに考えたことはないだろうか。
もちろん、震災直後の第一陣には、可能な限り近隣から、迅速に最大限の部隊が被災地入りして被災者の生命と健康確保にあらゆる努力を尽くす。
そしてその間に、遠方から第2陣として長駆し駆けつけるわけだが、実はこのような遠方からの災派(災害派遣)は、有事の際の演習も兼ねていることをご存知だろうか。
実際の有事においては、どれだけ早く目的地に駆けつけられるかが災害派遣と同様に重要になるが、災害発生時と同様に、目的地が近づくに連れてインフラが破壊されていたり、通信網が途絶えているなどの障害が発生する可能性もあるだろう。
そのため、敢えてこのような、普段どおりの運用で厳しい超長距離での移動を経験し、被災地を目指すことになっている。
海路と陸路の2手に分かれて移動し、それぞれの問題点を検証することもある。
そして被災地に入ると、休む間もなく直ちに被災者支援・インフラ復興などの各種活動を開始することになる。
ただでさえ、精神的・肉体的に極度の疲労が避けられない災派において、現地に長駆して駆けつける陸自の隊員たちは、その前段階から非常に厳しい移動を重ね、被災地入りしていることをどうか一人でも多くの人に知ってほしいと願う。
そしてもし、「災害派遣」と書かれた自衛隊の車列を見かけることがあれば、手を振って 「お疲れ様です!」 と、ひとこと声を掛けてもらえれば幸いだ。
誇りある自衛官にとって、何よりの心の栄養は国民からの声援そのものである。
ぜひ、そんな形でもいいので、一人ひとりができる「国防への小さな貢献」に取り組んでもらいたい。
では、そんな誇りある第6戦車大隊の最後の指揮官を引き受けた本吉とは、いったいどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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