後藤雅人(ごとう・まさひと)|第31期・航空自衛隊

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後藤雅人は昭和40年3月生まれ、徳島県出身の航空自衛官。

防衛大学校は第31期、幹候は77期の卒業だ。

 

平成29年12月(2017年12月) 防衛装備庁プロジェクト管理部プロジェクト管理総括官・空将補

前職は第4術科学校長兼ねて熊谷基地司令であった。

 

2018年3月現在、防衛装備庁プロジェクト管理部プロジェクト管理総括官を務める後藤だ。

第31期組トップエリートの一人であり、技術系のポストで活躍してきたキャリアが目立つ空将補である。

現職である防衛装備庁の要職はもちろん、空幕技術課航空班長、技術課長、航空開発実験集団司令部幕僚長、第4術科学校長など、その歴任してきたポストはそのまま、後藤の強みをわかりやすく示しているキャリアになっている。

 

一方で後藤は、ロシア防衛駐在官や岐阜地方協力本部長など、「人」を扱う職域でも大きな成果を残しており、その人間的な魅力も窺えるキャリアを誇るのが、その特徴だ。

中でも、防衛駐在官としてロシアに赴任していたキャリアは、やはり際立っている。

 

なお後藤がロシアに赴任していたのは平成17年、西暦で言うと2005年から3年ということになるが、この時期はロシアの第2代プーチン大統領が1期目の任期を終え、再選を果たした直後。

日露戦争において日本がロシアに勝利した時からちょうど100年後にあたり、100年前には同じロシア駐在武官として明石元二郎が諜報活動を行っていた時期ということになる。

そのことは後藤もおそらく、強く意識した上でのロシア赴任であったと思われるが、歴史的にロシア駐在武官~防衛駐在官は、我が国の安全保障上で極めて重要な任務を任されてきた。

後藤もまた、その大きな期待を背負っての赴任であったと言ってよいだろう。

 

なおその100年前の大先輩である明石元二郎だが、日露戦争開戦後はロシアから逃れスウェーデンに出国し、ロシア革命を煽り次々に政情不安を発生させることに成功。

またロシアの動向に関する重要な軍事機密を次々に入手し本国に報告する縦横無尽の活躍をみせ、満州の荒野で戦う日本陸軍の戦闘判断に大きな影響を与えた。

そしてその活躍は、日露戦争の勝利に直接貢献したと讃えられ、陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史などは「明石の活躍は陸軍10個師団(20万人)に匹敵する」とまで評価。

一方で、当時ロシアと対峙していた日本軍は24万人規模なので、いくらなんでもそれは盛りすぎだが、いずれにせよそれほどまでに、勝利を決定づける情報を多くもたらし、またロシアを撹乱させる手柄を上げたということであろう。

 

冷戦構造が崩れ、我が国とロシアの関係は安定している状況ではあるが、安定期は次の動乱への準備期間であるとも言い換えられる。

軍事・外交のバランスが崩れれば、迷わずに他国に侵攻するのがロシアの伝統的な国策だ。

そういった意味では、平時の時こそロシア防衛駐在官の果すべき役割は非常に大きく、その収集する情報は我が国の安全保障政策に直結することになる。

技術畑で手腕を発揮してきた後藤が任された、一つ違う形での、後藤の活躍の歴史だ。

 

 

さて次に、その後藤と、後藤と同期である31期組の動向についてみてみたい。

後藤が航空自衛隊に入隊したのは昭和62年3月。

1等空佐に昇ったのは平成17年6月であり、同期1選抜である平成18年1月の昇任よりも更に半年以上も早い、超スピード出世だ。

なぜ、人事の規則よりも半年も早く後藤ひとりだけがこの時期、31期組で1等空佐に昇ったのか。

それは後藤があまりにも優秀であったために、特例的に昇任が認められたためだ。

・・・というのはもちろん嘘である。

いや、優秀というのが嘘というわけではなく、特例の昇任というのが嘘である。

17年6月から後藤が防衛駐在官としてロシアに赴任することが決まっていたため、1佐への昇任を済ませた上での現地赴任となった格好だ。

 

正直、このあたりのルールはいつものことだがわからない。

身分も外務省職員(出向)になるため、防衛省の人事発令記録に残っておらず、どういった人事の規則に基づくのか。

なんせ防衛駐在官として赴任する幹部は、その任期中に昇任が見込まれる場合、予め昇任させてから現地に赴くという運用が為されており、時にその昇任は、1選抜よりも早い昇任となる。

なおかつ不思議なのは、このルールがあるのは陸空のみであり、海上自衛隊では、防衛駐在官として赴任中に普通に昇任人事が為されている。

さっぱりわけわからんのである。

 

いずれにせよ、1選抜よりも早く1佐に昇った後藤だが、空将補に昇ったのが25年12月。

こちらは同期1選抜から1年4ヶ月の遅れであったが、航空自衛隊ではこのあたりの差は大きな意味を持つことはない。

堂々の、31期組トップエリートのスピード出世を続けている最高幹部と言ってよいだろう。

 

なお、その31期組は2018年夏の将官人事で、最初の空将が選抜される年次になっている。

そのため、空将補にあるものが出世頭であるが、2018年3月現在で、以下の幹部たちが空将補として切磋琢磨している状況だ。

 

引田淳(第31期)・西部航空方面隊副司令官(2011年6月)

内倉浩昭(第31期)・航空幕僚監部防衛部長(2012年7月)

森川龍介(第31期)・航空教育集団幕僚長(2012年7月)

荒木哲哉(第31期)・航空幕僚監部総務部長(2013年8月)

西谷浩一(第31期)・防衛監察本部監察官(2013年8月)

後藤雅人(第31期)・防衛装備庁プロジェクト管理部プロジェクト管理総括官(2013年12月)

秋山圭太郎(第31期)・第5術科学校長(2016年7月)

石村尚久(第31期)・第4術科学校長(2017年12月)

※肩書はいずれも2018年3月現在。( )内は空将補昇任時期

※引田の空将補昇任は、後藤と同じ理由(米国防衛駐在官)で、1選抜よりも1年1ヶ月早くなっている。

 

以上のような状況になっており、まずは引田、内倉、森川、荒木、西谷、後藤あたりまでが、31期組の最高幹部人事では中心になって動いていくことになるだろう。

特に2018年夏の将官人事では、空将補の在任期間を併せて考えると、この5名以外から選ばれることはまず考えられない。

 

いずれにせよこの8名は、この先5年間、2020年代前半にかけて、我が国の平和と安全を守っていくにあたり、中心的役割を果たしていく最高幹部たちである。

誰が最初の空将に選抜されようとも、その事実には一切変わりはない。

 

後藤についてはおそらく、今後も技術系のポストで空幕を始めとした中央での要職を歴任していくことになるだろう。

その活躍にはぜひ注目し、そして応援して行きたい。

 

本記事は当初2017年7月29日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年3月17日に整理し、改めて公開した。

 

◆後藤雅人(航空自衛隊) 主要経歴

昭和
62年3月 航空自衛隊入隊(第31期)

平成
10年1月 3等空佐
13年7月 2等空佐
14年3月 中央業務隊付
17年6月 ロシア防衛駐在官 1等空佐
20年9月 航空幕僚監部技術部技術課航空班長(市ヶ谷)
22年4月 航空幕僚監部人事教育部人事計画課人事計画調整官兼ねて企画班長(市ヶ谷)
22年8月 自衛隊岐阜地方協力本部長(岐阜県)
24年7月 航空幕僚監部技術部技術課長(市ヶ谷)
25年12月 航空開発実験集団司令部幕僚長(府中) 空将補
27年12月 第4術科学校長兼ねて熊谷基地司令
29年12月 防衛装備庁プロジェクト管理部プロジェクト管理総括官

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省航空自衛隊 熊谷基地公式Webサイト(顔写真他)

http://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/commander.html

http://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/topics.html

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