五十嵐雅康(いがらし・まさやす)|第39期・陸上自衛隊

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五十嵐雅康は昭和47年生まれ、青森県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第39期の卒業で幹候76期、職種は普通科だ。

 

令和元年8月(2019年8月) 第21普通科連隊長兼ねて秋田駐屯地司令・1等陸佐

前職は第12旅団司令部第3部長であった。

なお、第21普通科連隊長兼ねて秋田駐屯地司令としての指導方針は以下の通り。

 

【要望事項】
「プロフェッショナル戦士たれ」

(画像提供:陸上自衛隊秋田駐屯地公式Webサイト

2019年11月現在、第21普通科連隊長兼ねて秋田駐屯地司令を務める五十嵐だ。

第21普通科連隊は、普通科にある幹部にとってもっとも誇り高い連隊長ポストの一つであり、その隷下隊員数は1000名を超える。

通常編成の普通科連隊が概ね850名前後、軽編成の普通科連隊であれば650名前後が通常の隊員数であるといえば、その規模の大きさをご理解頂けるのではないだろうか。

 

しかし言うまでもなく、第21普通科連隊長はただ、その規模が大きいことだけをもって誇りとされるポストではない。

そのルーツを戦前の歩兵第17聯隊に持つことでも、多くの旧軍・陸自マニアを虜にする。

なお歩兵第17聯隊は、日露戦争における日本陸軍最大の危機であった黒溝台会戦において、我が軍を崩壊の危機から救った第8師団の主力であった部隊だ。

そしてこの黒溝台会戦にあっては、およそ戦闘などとてもできないと考えられていた1月の満州の厳冬の中にあって、日本陸軍はロシア軍の大規模奇襲を受ける。

この時、春の雪解けを待って攻勢をかけようと準備していた虚を完全に突かれた日本軍では、直ちに戦闘態勢を取ることができた部隊は僅かであった。

そんな中、守備側の主力となったのが第8師団を主力とする、およそ5万の精鋭部隊であった。

とは言え、対するロシア奇襲側の兵力はおよそ10万である。

想定外の奇襲であったこととも併せて、日本軍は総崩れ寸前まで追い詰められた。

もしこの時、第8師団正面が破れれば恐らく日本陸軍全体も敗れ去り、日本はロシアに降伏し独立を失っていただろう。

それほどまでに、この戦いでは文字通り、我が国は国家存亡の危機に立たされていた。

そんな危機にあって、損耗率が実に5割にものぼる第8師団の主力として、文字通り鬼神の活躍を見せ、ロシア軍に立ち向かったのが歩兵第17聯隊であった。

その粘り強さ、真姿素朴、堅忍不抜の戦いぶりはまさに東北健児の誇りであり、そして5日間に及ぶ激しい攻防の末、ロシア軍はついに奇襲を諦めて撤退を始め、日本軍は辛勝を収めることに成功した。

この際の第8師団の戦いぶりはまさに伝説的であり、その精強さ、我が国を亡国の縁から救った活躍をたたえて、戦後、第8師団は「国宝師団」という最大級の尊称を国民から与えられることになる。

もちろんその後も、長きに渡り多くの国民の心に、その勇猛な戦いぶりが長く残り続けた。

 

そして、それほどの精強な誇り高い部隊の伝統を継承するのが、この陸上自衛隊第21普通科連隊である。

令和の今も、東北健児の誇りを胸に精強さを維持する伝統は、何一つ変わらない。

その精強な部隊を指揮する名誉を与えられたのが、この五十嵐ということだ。

 

なお、これほどまでの部隊である以上、その指揮を任された歴代の連隊長は皆、誇り高い幹部たちばかりであった。

例えば現・陸上幕僚長の湯浅悟郎(第28期)は、五十嵐の8代前、第23代の連隊長である。

そして湯浅の第23代以降、現役にある陸自幹部をみると、

第25代 蛭川利幸(第31期)
第26代 末吉洋明(第33期)
第27代 橋爪良友(第34期)
第28代 堺一夫(第36期)

の4名が、すでに将官に昇っている。

皆が皆、卓越した最高幹部ばかりであり、この顔ぶれをみても第21普通科連隊長のポストがどれほど存在感のあるポストか。

そして五十嵐にかかる陸自内外の期待がどれほど大きいのか、おわかり頂けるのではないだろうか。

そしてその五十嵐自身ももちろん、ちょっと驚くようなキャリアを誇る凄い幹部である。

 

では、そんな五十嵐とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできたのか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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