福重毅尚(ふくしげ・よしなお)|第32期・愛知地方協力本部長

福重毅尚(ふくしげ・よしなお)は昭和40年生まれ、宮崎県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第32期の卒業で幹候69期、職種は機甲科だ。

平成31年3月(2019年3月) 自衛隊愛知地方協力本部長・1等陸佐

前職は第7師団司令部幕僚長であった。

(画像提供:自衛隊愛知地方協力本部公式Webサイト

(画像提供:陸上自衛隊第73戦車連隊公式Webサイト

2019年5月現在、愛知地方協力本部長を務める福重だ。

地方協力本部は、自衛官の採用や募集、予備自衛官の管理を行う他、退役する任期付自衛官や幹部曹士に対し、第二の人生を斡旋するなどの役割を担う。

また地域社会に対し自衛隊の持つ知見を提供し、減災や防災をはじめとした様々な国民生活の向上に資する役割を果たすなど、非常に幅広い任務をこなす。

早い話が、自衛隊の入り口であり出口であり、窓口であると言ってよいだろう。

その責任者ともなれば、自衛隊で数少ない対民間向けの「営業責任者」でもあることから、自衛官としての資質はもちろん、高いコミュニケーション能力に人間的な魅力と、様々な力が要求される。

福重が任されているのは、そのような非常に難しく、また責任の重いポストだ。

その福重について。

これほどの要職を任される幹部でもあり、そのキャリアはいずれも印象深いが、敢えて一つ挙げるとすればそれは、今はなき第11戦車大隊で若手幹部の時代を過ごしたことだろうか。

第11戦車大隊は2019年3月、第11旅団の機動旅団化に伴い廃止をされ、第11戦車隊へと縮小改編をされることになった。

その廃止には、OB含めて非常に特別な感慨を持って見守る自衛隊内外の関係者、ファンがとても多かったが、それも当然だろう。

第11戦車大隊は、日本陸軍最後の戦闘とも言うべき「占守島の戦い」で奮戦し、北海道をソ連軍の占領から阻止した士魂部隊の伝統を引き継ぐ部隊だったからだ。

占守島の戦いは1945年8月17日、ポツダム宣言を受諾後でありすでに武装解除を始めていた日本軍に対し、ソ連軍が奇襲攻撃を仕掛ける形で戦闘が始まった。

ソ連名物の横紙破りであり、戦争に利があれば迷わず周辺諸国に対し侵略の手を広げるDNAが、敗戦直後の日本にも襲いかかってきた形であった。

そしてソ連はこの時、敗戦直後ですでに日本軍には抵抗する力がないとみなして千島列島沿いに南下をし、一気に北海道までを占領する計画を立てていた。

このソ連の無法な攻撃に対し、応戦する守備隊隊は堤不夾貴・中将以下の精鋭部隊であり、中でも主力は池田末男・大佐率いる戦車第11連隊。

すでに武装解除の準備を始めていたものの、海上から近接しようとするソ連軍の艦艇に明らかな異変を察知し、直ちに応戦を開始する。

しかし普通に考えれば、すでにポツダム宣言を受け入れ、士気も壊滅状態であろう部隊がまともに戦えるはずがない。

時間の問題で占守島は破られ、北海道まで盗られるのは時間の問題と誰もが思ったところ、占守島の守備隊はソ連軍が全く想定していなかった精強さを見せる。

それもそのはずであり、占守島の守備隊にはガダルカナルを始めとした南方の生き残りも多数含まれており、スコールのように降り注ぐ米軍の艦砲射撃に耐え抜いた猛者たちばかりだ。

終戦後になって「はじめてのじょうりくさくせん」を仕掛けてきたようなソ連軍の艦砲射撃など、心地よく頬を撫でる涼風くらいのものであっただろう。

そしてこのションベンのような攻撃に対し、ポツダム宣言の受諾でストレスを溜め込んでいた守備隊は最後の鬱憤をぶつけたのだから、ソ連軍もぶっちゃけ相手が悪かったと言うものだ。攻撃隊は次々に海に叩き落とされ、「1週間で北海道を落とす」と豪語していたスターリンは最初の攻防戦でいきなり出鼻をくじかれる。

実際に日本軍最後の抵抗は有利に戦闘が進んでいくが、しかしさすがに敗戦を受け入れたあとの国際情勢だ。

大本営からの戦闘中止命令を受け、占守島守備隊は8月21日までの5日間を守り抜くとソ連軍に降伏。

この間に、北方での異変を察知した米軍が千島列島と北海道近海に多数の艦艇を出してソ連軍の侵攻を阻止する構えを見せたことから、ソ連軍は北海道侵攻を断念し北方領土を強奪しただけで矛を納めた。

意外に知られていない事実だが、これが日本軍最後の戦闘であり、”終戦の日”である8月15日以降も戦い抜いた部隊がいたおかげで、北海道は今日も日本領であり続けている歴史上の事実だ。

そしてその戦いの中心で力を発揮したのが戦車第11連隊であり、福重が若き日を過ごした第11戦車大隊の先人たちであった。

福重の中にもきっと、国家と国民を守るために最後まで戦い抜いた精鋭たちの魂であり、DNAが受け継がれているのではないだろうか。

なお、この際に降伏をした占守島守備隊のその後だ。

戦闘の最前線で指揮を執った池田末男大佐は、この戦いの中で日本軍将兵最後の戦死をされている。

そして降伏を強いられた将兵たちは、計画を乱され怒り狂ったスターリンの恨みを買うことになり、シベリアに連れて行かれ長期の抑留生活と奴隷労働の日々を強いられた。

最後の最後まで国家と国民を守るために奮戦した将兵たちの、本当に厳しい戦後となってしまった。

ぜひ、この事実を一人でも多くの国民に知ってもらいたいと願っている。

では、そんな精鋭部隊の魂を引き継ぎ、機甲科の幹部として活躍をしてきた福重とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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