六車昌晃(むぐるま・まさてる)は昭和38年8月生まれ、千葉県出身の陸上自衛官。
陸上自衛隊少年工科学校の第25期生徒を卒業し、日大法学部を経て幹候68期として幹部任官しているので、第31期相当の幹部ということになる。
出身職種は武器科だ。
令和元年8月(2019年8月) 武器学校長・陸将補
前職は関東補給処副処長であった。
(画像提供:少年工科学校第26期江村様)
(画像提供:陸上自衛隊第15旅団公式Webサイト)
2019年9月現在、陸上自衛隊武器学校長を務める六車だ。
武器学校は茨城県の土浦駐屯地に所在しており、文字通り陸自の武器科にある幹部曹士に対し、専門教育を実施する教育機関である。
私たち一般国民の目線で言えば、不発弾処理の現場で特にお世話になることが多い職種だ。
もちろん、不発弾処理の基本的な教育もここ、武器学校で行われている。
沖縄では今も、年間平均600回もの不発弾処理に活躍するなど、文字通り国民のために命をかけて活躍をしている。
なお上記写真1枚め。
こちらは、左側が六車であり、右側が、お写真を頂戴した少年工科学校第26期卒業の江村様である。
私に少年工科学校のことを厳しく 脅迫 教えて下さる、頼りになる自衛隊の先生の一人だ。
少年工科学校の卒業生のことを少しでも悪く書こうものなら、「どうなるかわかってるよね?」と笑顔でニッコリされる、とてもチャーミングな一面も持ち合わせている。
さて、その六車についてだ。
六車については、武器学校長や関東補給処副処長、それに第9後方支援連隊長を務めるなど、特筆したい活躍はいくつもあるのだが、ここでは敢えて、少年工科学校の卒業生であることを特にご紹介したい。
少年工科学校は、今では名前を変えて高等工科学校となっている、陸上自衛隊の技術陸曹を養成するための組織である。
一般人の間では全く認知されていないかも知れないが、かつては若干15歳(16歳になる年)にして陸上自衛隊の3等陸士に任官し、正式な「軍人」として国防の任に当たっていた。
その後、国連など国際情勢の変化により、少年兵を排除する機運に併せて組織や運用を見直し、今では自衛隊員(防衛省職員)ではあるが、自衛官の身分ではなくなった。
六車はそれ以前の時代、実に昭和54年から、自衛官として我が国の国防に当たり続けているということになる。
また特筆するべきは、六車のそのキャリアだ。
六車は少年工科学校を卒業後、陸曹に任官すると勤務の傍らで日本大学の法学部に学び、卒業している。
そして少年工科学校を卒業した5年後に、幹部候補生に任官している。
これがどれほど凄いことか、おわかりだろうか。
想像して欲しいのだが、現場で実務を担い始めたばかりの陸曹が、任務をこなしながら大学の勉強もこなし、卒業してしまうのである。
必然的に、その勉強は任務が終わった後の夜間である。
もちろん、陸曹としての教育・訓練もあり、試験に備えた勉強も厳しくのしかかってくる。
六車はそれらをこなし、さらに日大の法学部も卒業しているということだ。
この辺りのお話は、現・高等工科学校長で少年工科学校第26期卒業の堀江祐一(第33期相当)の記事の中でもお伝えしていることだが、本当に凄いことである。
実際に、堀江の同期である26期の方からお聞きした話を堀江の記事の中でもご紹介しているが、新任陸曹としての勤務は本当に過酷で、全く余暇を取ることができないそうだ。
そんな中、たまの休みや僅かに空いた時間では、同期とのコミュニケーションや休息に充てたいところ、それすらも勉強に充てるのは並大抵の精神力ではできないんです、というお話であった。
この時のお話は、堀江の同期が堀江の凄さを私にお伝えしてくれたエピソードであったが、言うまでもなく、六車も同様である。
新任陸曹として現場にありながら、僅かな時間を見つけては大学の勉強に時間を使い、そして卒業をして、幹部候補生採用試験にも合格してしまうのである。
これ以上、六車の凄さを紹介するエピソードはないだろう。
決心し、やると決めたら目的に邁進する精神力。
それを5年間、継続する意志の強さ。
これが、将官に昇る幹部の凄さであると、肌感覚で理解させてくれる最高幹部の一人である。
ぜひ、そんな六車のキャリアと今後の活躍に、注目して欲しいと願っている。
では、そんな六車とはこれまで、どのような経歴をたどってきた幹部なのだろうか。
少し詳細に、そのキャリアを見ていきたい。
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