菊地聡は昭和36年2月16日生まれ、北海道出身の海上自衛官。
防衛大学校第28期の卒業(機械工学)で幹候35期、出身職種は飛行だ。
平成29年12月(2017年12月) 佐世保地方総監・海将
前職は舞鶴地方総監であった。
28期組海上自衛隊のトップエリートにして次の次の海上幕僚長候補と言っても良い菊地である。
防衛大学校卒業以来、一貫して飛行畑で指揮を執った最高幹部だ。
対潜・対艦航空部隊のエキスパートであり、我が国の安全を最前線で守る潜水艦隊や護衛艦隊とともに、敵潜水艦の補足・殲滅の一翼を担う指揮官である。
東北アジアの情勢と我が国の防衛政策を考える上で、菊地の知見はますます無くてはならない存在になっていくであろう。
そのキャリアは極めて充実しており、海上自衛隊の入隊は第28期なので昭和59年3月。
1等海佐に昇ったのは平成15年1月なので、第28期組の1選抜(1番乗り)に当たるスピード出世だ。
さらに海将補に昇ったのが平成21年7月なので、1等海佐を6年でキャリアパス。
こちらも自衛隊の人事制度で最速の昇進速度であった。
そして海将に昇ったのは平成27年12月。
こちらは同期最速に比べ4ヶ月譲ったが、それでも堂々の、28期組として2番手の海将昇任である。
なお、ここまでの最高幹部だ。
やはり「頂点のイス」に手が届くのかどうかが気になるところだが、同期28期組でその有資格者とも言える海将の状況についても見てみたい。
2018年1月現在の状況だが、以下のようになっている。
なおカッコ内の数字は海将昇任の時期だ。
山村浩(第28期)・海上幕僚副長(27年8月)
菊地聡(第28期)・佐世保地方総監(27年12月)
佐藤直人(第28期)・防衛装備庁長官官房装備官(28年12月)
高島辰彦(第28期相当)・潜水艦隊司令官(29年12月)
※肩書はいずれも2018年1月現在。( )内は平成表記での海将昇任時期。
28期組の中から海上幕僚長が選ばれる政治状況になった場合、この4人のいずれかであることは確実だが、その中でも、もっともアドバンテージが有るのはやはり山村であろう。
同期最速の昇任であることと併せ、山村の場合、第33代海上幕僚長である村川豊(第25期)の後任に選ばれたとしても、決してサプライズではない位置につけている。
海上幕僚副長というポストが、海上幕僚長に昇るものが最後に通過するポストの1つであること。
前職では護衛艦隊司令官を務めており、頂点に昇るものの多くが通過してきた王道を歩んでいることなどがその理由だ。
恐らく村川の海上幕僚長としての任期は2018年12月までなので、或いは後職で、佐世保地方総監や横須賀地方総監、自衛艦隊司令官などに補職されれば、次の次の海上幕僚長としての可能性が一気に高まる。
菊地については、前職の舞鶴地方総監のポストが初めての海将ポストであったが、佐世保地方総監に昇ったことで一気に、山村との差を縮めた形だ。
というのも、佐世保地方総監は横須賀地方総監と並び、地方総監のポストとしては最も格上であり、後職で海上幕僚長に昇る可能性も考えられる要職だからだ。
舞鶴地方総監という、緊張が高まる東北アジア最前線の地で総監職を経験したことも非常に大きい。
28期組の海上幕僚長候補レースは、事実上山村と菊地の二人に絞り込まれたと言ってよいのではないだろうか。
ところで、前職で菊地が補職されていた、舞鶴地方総監というポストについてだ。
かつてこのポストは、日本海軍の時代から閑職扱いされていたことがあり、第二次世界大戦以前の戦艦が主力とされた時代には、1隻の戦艦も配備されていないという時代を経験したこともあった。
これはひとえに、日露戦争後の仮想敵はアメリカであり日本海側に戦艦を配備する意味合いが無かったこと。
冬になれば海が大荒れになる日本海側は主力艦船を配置するのに不向きであること。
波が穏やかであり、防衛実務上極めて好都合な条件が揃っている呉に海軍の主力を置けば特に不都合が無かった、というようなことがあげられるだろう。
日露戦争以前まで遡った、清やロシアが仮想敵国だった時代にあっても地理的条件は変わらず、鎮守府としては軽く見られる傾向にあった。
そのような中、日露戦争開戦直前、閑職とされた舞鶴鎮守府司令長官にあった東郷平八郎が常備艦隊司令長官(連合艦隊司令長官)に抜擢されたことはあまりにも有名な話だ。
そして、世界3大海戦とも言われる日本海海戦に完勝する指揮官となったことで一気にこの舞鶴まで人気スポットになり、今なお東郷由来の観光資源は、ここ舞鶴には事欠かない。
まさに東郷効果で、この舞鶴の地は日本国民にとって、軍港の街としてその人気を一気に高めた。
なお余談だが、東郷と入れ替わりで常備艦隊司令長官の職を解かれ、舞鶴鎮守府の司令長官となり、静かに軍務を終えた日高壮之丞だが、その孫である日高盛康(海兵66期)は、祖父の後を追うようにして戦前の日本海軍に入隊している。
そして空母艦載の零戦パイロットになり、ミッドウェー海戦や第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦といった海軍パイロットの華とも言える戦場で戦い抜き、敵を撃墜し続け、そして最後まで生き残った。
そんな日高翁であったが、近年まで元気でご存命だったが、残念ながら2010年に93歳で他界をされた。
非常に残念であり、これほどの歴戦の勇士を失ったことは、言葉に出来ないほどの口惜しさを禁じ得ない。
ここ舞鶴の地には、たくさんの人達の思いとともに、たくさんの歴史があり、そしてまた今も紡がれている。
※
本記事は当初2017年7月6日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年1月17日に整理し、改めて公開した。
なお、ここから下の部分は2017年7月に公開した当時のものをそのまま残している。
さてこのような歴史ある舞鶴だが、近年はその重要性をますます高め、存在感が大きくなる一方の地方隊である。
1999年には、自衛隊で初となる海上警備行動が海自艦船に発令され、実際に護衛艦から多くの実弾が発射された「能登半島沖不審船事件」が生起したが、その際に事件を担当し、艦艇を急派したのはこの舞鶴基地であった。
「はるな」「あぶくま」「みょうこう」であり、能登半島沖で北朝鮮の不審船を補足したこれら艦隊は直ちに追尾を開始。
至近距離から実弾を、対象100mの距離に着弾し続けたが、日本人が拉致されている可能性を否定できない不審船を撃沈するまでの行動には出られず、破壊することまではできなかった。
また当時、海上自衛隊には特別警備隊も組織されていなかったことから接舷し臨検することもできず(なおこの時、みょうこう艦内では即席の隊員でチームが組まれ臨検に入る寸前であった)、取り逃がさざるを得なかった苦い教訓を多く残した。
その結果、海上自衛隊には多くの影響を残すことになったが、先述の、自衛隊初となる特殊部隊である、海上自衛隊特別警備隊もその一つであろう。
なおこの時、舞鶴にあり海上警備行動の指揮を執った吉川榮治・第3護衛隊群司令(舞鶴)は後に海上幕僚長に昇りつめている。
また2017年10月現在、北朝鮮からの弾道ミサイル発射に対し、24時間365日の体制で警戒監視にあたっているのはこの舞鶴基地であり、みょうこうやあたごを始めとした第3護衛隊群である。
その厳しい任務に、衆議院議員選挙を直前に控えた時期である2017年9月30日には安倍総理大臣自らが舞鶴を訪れ、みょうこう艦上で隊員に対し、激励の訓示を送るという一コマもあった。
なおこの時、みょうこう艦上には菊地と思われる将官の姿も見えたが、相当慌ただしい出迎えになったのではないだろうか。
あるいはこのような重要性の高まりもあり、ますます菊地の存在感は高まっていくことになるであろう。
まずは、予想される次の異動が2017年12月である。
この冬で一番楽しみな人事異動の一つとして、期待して異動先に注目したい。
◆菊地聡(海上自衛隊) 主要経歴
昭和
59年3月 海上自衛隊入隊(第28期)
平成
7年1月 3等海佐
10年7月 2等海佐
11年9月 第9航空隊
12年8月 第51航空隊
13年3月 第3飛行隊長
14年8月 海幕副官
15年1月 1等海佐
16年7月 海上幕僚監部装備体系課航空機体系班長
18年3月 第5航空隊司令
20年3月 海上幕僚監部防衛課
21年1月 第1航空群司令部首席幕僚
21年7月 航空集団司令部幕僚長 海将補
23年8月 第4航空群司令
24年7月 統合幕僚学校副校長
25年8月 呉地方総監部 幕僚長
26年3月 海上幕僚監部 総務部長
27年12月 舞鶴地方総監 海将
29年12月 佐世保地方総監
【注記】
このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。
主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。
自衛官各位の敬称略。
※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。
【引用元】
防衛省海上自衛隊 舞鶴地方隊公式Webサイト(着任式、顔写真、サマーフェスタ視察写真)
http://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/dekigoto/dekigoto.html
http://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/about/message/index.html
防衛省海上自衛隊 佐世保地方隊公式Webサイト(着任式写真)
http://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/4_active/5_change/29_index.html
コメントを残す