髙谷勝義(第101不発弾処理隊長)|少年工科学校第28期・陸上自衛隊

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その髙谷が陸上自衛隊に入隊したのは、先述のように昭和57年4月。

少年工科学校第28期生として、15歳の頃から階級を持った自衛官であった。

現在の高等工科学校と違い、少年工科学校では入学と同時に階級を持ち、自衛官に任官している。


(画像提供:陸上自衛隊第15旅団公式Webサイト


(画像提供:陸上自衛隊第15旅団公式Webサイト

少年工科学校といえば、時代背景もあり、当時は相当な  悪童  元気の良い子供たちの集団であったと聞く。

しかも第28期といえば、昭和54年に生徒の定員が520名から250名に大幅に削減されて、3学年ともに生徒の縮小が完了した2年目だ。

つまり、生徒同士の人間関係が今まで以上に濃厚で、同期同士では深い友情が芽生えるものの、上級生がますます絶対恐怖の存在になっている学年である。

 

生徒同士では、在学中はもちろん卒業してから何年経っても、当時の上級生はトラウマになるレベルで怖い事が多いそうだ。

中には、久しぶりに再会した元上級生に5mバックの最敬礼で震えあがることもあるという。

そんな28期の髙谷にとっては、一番怖い上級生であったのは26期。

2018年8月現在で現役の生徒26期といえば、陸上自衛隊高等工科学校長で陸将補の堀江祐一(第33期相当)がまず思い浮かぶが、果たして堀江はどんな上級生だったのか。

お顔からして明らかに恐怖の大王だった気がしなくもないが、そういう意味では、おそらく第24期の小和瀬一(第31期相当)の方が、恐怖の大魔王であった気がする。

というより、一部の人を除いて生徒出身の人は、みな顔が怖い。

2018年度の新入生徒総代であった少年は凛々しく賢い少年だと聞いているが、やはり昭和の時代と平成末期では、生徒の質もだいぶ異なるようだ・・・。

 

さて最後に、いつもであれば同期の動向を・・・というところだが、髙谷については現場で生き、現場指揮官のままで活躍する自衛官生活を選んだ幹部である。

幹部任官同期のご紹介を、敢えてさせて頂く必要はないだろう。

武器科の幹部らしく、後方支援や補給部隊の現場指揮官を歴任してきた幹部であり、今後もまた、同様に最前線の指揮官として活躍する自衛官人生を送っていってくれるはずだ。

 

2等陸佐ということもあり、原則1佐以上しか発令の公開がないので、あるいは髙谷のご紹介はこれが最初で最後になり、更新が難しいかもしれない。

しかし可能な限り、その動向には注視して、その活躍を追い続けたい。

そして変わらず、応援をして行きたい。

 

※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。


(画像提供:陸上自衛隊第15旅団公式Webサイト

◆髙谷勝義(陸上自衛隊) 主要経歴

昭和

57年4月 陸上自衛隊入隊(少年工科学校生徒第28期・武山)

平成
5年3月 第1後方支援連隊武器隊
11年3月 武器学校研究部研究員
15年3月 補給統制本部部弾薬部使用書班長
16年3月 武器学校付(幹部特修課程学生)
17年3月 第6後方支援連隊武器大隊第2中隊長
18年3月 第6後方支援連隊第2整備大隊第1普通科直接支援中隊長
19年3月 陸上幕僚監部装備計画部武器・化学課弾薬班技術担当
22年8月 陸上幕僚監部付(防衛省防衛政策局国際政策課)
24年8月 第7後方支援連隊第2整備大隊長
27年3月 補給統制本部弾薬部技術課長
29年3月 第101不発弾処理隊長

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4件のコメント

こういう命を懸けて仕事をしている素晴らしい人達がいるというのに子供とのふれあいの場を抗議で潰す共産党……。

埼玉の件ですね。
本当に残念ですが、一般市民の理解が得られない行動はそのままいろいろな形で現れていると思います。

不発弾の処理なんて自衛隊でしかできないでしょう。警察とかなら爆発物処理班とかありますが、小型の爆弾とかが主で大型爆弾なんて警察とかは手におえないでしょう。それを「自衛隊は人殺し」とか「自衛隊は武装するな」とか訳のわからない左翼勢力とかには呆れますね。
自衛隊は人殺しなら不発弾の処理なんてしないと思いますね。こういう指揮官がいて優秀な隊員がいるから平穏な日常生活を送ることができることがなんでわからないのか理解できません。

のりまき様コメントありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。
しかし、そのような特殊な主張をする人たちは、あるいはそういう人たちが支持する政治勢力は、すっかりと国民の支持を失いつつあります。
時代は変わりましたね、自衛隊を堂々と応援できるだけでも30年前からは考えられない程で嬉しい限りです。

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