伊藤優一郎(いとう・ゆういちろう)は広島県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第40期の卒業で幹候77期、職種は普通科だ。
生年月日は判明しないものの、連隊長着任時の年齢から考えて昭和47年度の生まれであると思われる。
平成30年3月(2018年3月) 第37普通科連隊長兼ねて信太山駐屯地司令・1等陸佐
前職は陸上幕僚監部監理部総務課企画班長であった。
なお、第37普通科連隊長としての指導方針は以下の通り。
【連隊長統率方針】
役割を果たす
【連隊長要望事項】
主役になれ
【駐屯地司令要望事項】
洗練された駐屯地
(画像提供:陸上自衛隊信太山駐屯地公式Webサイト しのだやま第205号)
2018年10月現在、第37普通科連隊長兼ねて信太山駐屯地司令を務める伊藤だ。
戦前に所在した歩兵第37連隊のナンバリングを継承する数少ない普通科連隊であり、南大阪と和歌山をその担当地域とする。
我が国の政治と経済の中枢を防衛する極めて重要な役割を与えられた「政経中枢師団」、第3師団の中核となる部隊であり、地域との関係も極めて良好でその曹士の士気も極めて高い。
なお上記写真1枚め、伊藤を紹介する師団長は田中重伸(第30期)。
第1ヘリコプター団長を務めるなど、現役自衛官を代表する空のエキスパートだが、1等陸佐であった平成20年には、同じ大阪の八尾に所在する、中部方面航空隊長を務めたキャリアの持ち主だ。
文字通り、鷹の目で地域を知り尽くす田中だが、その田中をして着任式の際には、
「第37普連長として、最適任者を迎えることができた」
と評価された伊藤である。
第3師団担当区域に居住する国民のみならず、その仕事ぶりにかかる陸自内外の期待は非常に大きい。
なお、その伊藤が預かる第37普通科連隊は、明治3年に編成を完了した大阪砲兵隊にまで、その歴史を遡ることができる。
明治維新最初期に編成された部隊の一つで、明治7年の佐賀の乱、9年の萩の乱、10年の西南戦争と、我が国の近代黎明期における大規模戦闘には全て参加してきた非常に伝統ある部隊だ。
もちろん日清・日露戦争にも参加しており、日露戦争においては、我が国の陸戦の勝利を決定づけるターニングポイントとなった南山、遼陽、沙河、奉天など全ての戦闘に参加し、非常に大きな戦果を挙げ続けた。
その後、大正8年(1919年)に大阪法円坂から信太山に移駐し、現在の駐屯地に続く歴史を脈々と受け継いでいる。
2019年は、旧軍から数えて信太山駐屯地開設の100年にあたる節目の年だ。
あるいはこの年の駐屯地記念行事は、何か特別のイベントがあるのではないか。
せめてブルーインパルスの祝賀飛行を見たいと、今からワクワクする思いである。
では、そんな誇り高き伝統ある部隊を預かる伊藤とは、一体どのような経歴を歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、そのキャリアを見ていきたい。
こんばんは。いつも記事ありがとうございます。最初の着任式の写真ですが、言葉が悪くなりますが、ちょっとぽっちゃりとした感じに思えました。でも伊藤一等陸佐はなんと陸自精鋭で普通の自衛官でさえ根を上げる空挺レンジャーと幹部レンジャー保有者とあってすごいギャップを感じました。しかし、初任地が松本の第13普通科連隊でその後指揮幕僚課程となっているので、途中で第1空挺団で空挺レンジャー教育を経て正式な空挺団への転属が挟まれていると思いますね。たぶん2尉あたりで幹部レンジャー課程のため富士学校入校も隠されていますね。1選抜だと次の役職は陸幕の人事教育部か監理部の課長あたり?
最後に21年の陸上幕僚監部防衛部防衛課防衛官ではなく防衛班の間違いでは?37普通科連隊のしのだやま新聞の主要略歴に防衛班となっているので修正よろしくお願いします。
後、もうひとつ修正がありますが、28年の陸幕監理部総務課企画班長は28年7月1日付で着任していることがわかりました(自衛隊の人事発令の欄に載っています)。後、企画班長の前職が幹部学校付(27年8月~28年7月)となっていたのでここで防衛研究所一般課程とその前が幹部高級課程がたぶん隠れていると思います。防衛研究所の方は特に修正はしなくてもいいと思いますが、企画班長の方はぜひ修正お願いします。
はい、実は私も少し、写真映りは気になってました
^^;
もっといい男のはずなのになーと笑
省略されている経歴にそんなすごいキャリアが含まれているとは・・・。
しのだやま新聞も(T_T)ヒドイ
誤植について、ご指摘ありがとうございました!
修正しておきました。
こちらこそ、いつもありがとうございます!
いつも応援しております。
流石、伊藤連隊長ずいぶん早いお戻りですね。
ちなみに経歴の16年18年20年の異動時期は全て8月です。
今後の御活躍を期待しております。
グーフィーさん!
いつもありがとうございます。
履歴を修正しておきました。