谷嶋正仁は昭和41年7月18日生まれ、埼玉県比企郡川島町出身の航空自衛官。
防衛大学校第34期の卒業(航空宇宙工学科)で幹候80期、出身職種は飛行で、そのキャリアからF-1戦闘機のパイロット上りであろうと思われる。
平成28年12月(2016年12月) 第40代第1航空団司令・空将補。
前職は航空幕僚監部人事教育部厚生課長であった。
戦闘機パイロットしてのキャリアよりも、航空幕僚監部での勤務が目立ち、また防衛駐在官としての経歴が目立つ谷嶋である。
そのパイロットデビューは、平成5年の第3航空団(三沢基地)。
当時の三沢基地には第3飛行隊と第8飛行隊が所在していたが、いずれも運用機種はF-1戦闘機であったことから、谷嶋のパイロットとしてのキャリアは、F-1と共にあったものと思われる。
或いはそのようなこともあるのであろう。
谷嶋は平成5年から平成13年まで第3航空団にあったが、平成13年3月に幹部学校付となり、その後2年間外務省に出向すると、以降飛行の現場から長く遠ざかることになる。
まだ35歳であり、1線で飛べる年齢にある戦闘機パイロットが早々に現場を離れるのは意外なようだが、実はこの平成13年3月に、第3航空団では機種転換が行われた。
F-1戦闘機からF-2戦闘機への入れ替えが為されたのがまさにこの時だったのだが、35歳という年齢にあって、機種転換訓練を受けて後数年間、空の現場にあるか。
それとも次のキャリアに進むのか、という岐路にあった谷嶋は、操縦桿を置くことを選んだということのようだ。
戦闘機パイロットが1線で活躍できる期間は短い。
その短い期間の終りが見え始めている時に機種転換があるというのは、何とも運が悪いような気もするが、その結果として谷嶋は全く別の方面に大いに才能を発揮しているのだから、これもまた「人間万事塞翁が馬」ということなのであろうか。
その谷嶋の昇任と同期の動向を少し見てみたい。
航空自衛隊に入隊したのは、34期組なので平成2年3月。
1等空佐に昇ったのが平成20年6月であり、本来であれば34期組は、1選抜で1等空佐に昇るのは平成21年1月のはずだ。
人事考課の最速より半年も早く昇任したことになるが、これも谷嶋が極めて優秀であり特例・・・というアメリカ映画に有りがちな話ではもちろん無い。
谷嶋は平成20年6月から3年間、外務省に出向してポーランド防衛駐在官を務めていることに依るものだ。
ルールや昇任規則について、その根拠となる条文までを理解しているわけではないのだが、防衛駐在官に赴くものは、その任期中に昇任が予想される場合、外務省に出向になる前に昇任をさせる慣例が存在する。
それが仮に、1選抜の時期より早くても昇任する。
谷嶋もこの慣例で、1選抜よりも早い時期に1等空佐に昇っているのだが、部内的な扱いは恐らく1選抜と同じ21年1月と言うことになるだろう。
そして空将補に昇ったのは平成28年12月。
こちらは、同期1選抜から1年4ヶ月遅れた形での昇任となった。
なお2017年11月現在で、34期で空将補にあるものは以下の幹部たちだ。
この幹部たちが、7~8年後の航空幕僚長候補として切磋琢磨していくスーパーエリートということになる。
小笠原卓人(第34期)・西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令(2015年7月)
佐藤信知(第34期)・第8航空団司令兼築城基地司令(2015年7月)
小島隆(第34期)・航空開発実験集団司令部幕僚長(2016年12月)
谷嶋正仁(第34期)・第1航空団司令兼浜松基地司令(2016年12月)
(肩書はいずれも2017年11月現在、末尾は空将補昇任時期)
まずは小笠原と佐藤がひとつ抜け出した形だが、陸海と違い、航空自衛隊では空将補の昇任時期が絶対的な差にならないことが多い。
将補時代の実績を重視し、空将に昇任させるものを選ぶ傾向があることから、まだまだ先はわからないと言って良いだろう。
その谷嶋のキャリアの中で目立つのは、やはりポーランド防衛駐在官のポストだ。
谷嶋は、この3年間のポーランド在住期間を振り返り講演会で話すことも多いが、その概要はやはりポーランドという国の持つ国土の特異性と歴史だろう。
ポーランドは、ドイツと旧ソ連の間(現在はバルト三国やウクライナ、ベラルーシが独立したのでロシアと国境を接していない)に位置している。
このような難しい地政学的条件から単独での国家防衛はまず不可能であり、そして実際に、その国土は歴史上何度も、周辺国家によって外交の取引材料にされ、何度も国土が引き裂かれた。
このような国に防衛駐在官として赴くということは、日本がこれから国家としてどのように防衛思想を形成し、そしてそれをどのように政策として反映させていくか。
若い谷嶋に、それが託されたと言うことである。
幸いこの期間中、令夫人は極めて社交的でコミュニケーション能力が高く、ポーランドの武官たちとホームパーティーを開き人脈を広げる際、あるいは他の親交を深める場でも、大活躍をしたそうだ。
平成の時代にこんなことを言うと怒られるかもしれないが、軍人外交も任される最高幹部には、「専業主婦」として常に夫に付き添い、夫の仕事を影から支える才媛もまた必要不可欠な存在になる。
誤解を恐れずに言うと、「勉強と仕事の鬼であった」谷嶋よりも、美しく社交的な令夫人のほうがはるかに外交の舞台で力を発揮した、という事なのかもしれない。
そのあたりのエピソードについて谷嶋は帰国後、当時の仕事を振り返り、講演会などで妻への感謝を何度か率直に述べているが、いろいろな意味で素晴らしいご夫婦だ。
そして令夫人もまた、我が国の国防のために大いに活躍をされたことについて、ある意味で谷嶋以上に、評価されるべき成果を残したこと、特筆してしかるべきであろう。
仕事のできる男の後ろには常に表に出てこない才媛がいて、そして静かに歴史を作っている。
※
本記事は当初2017年7月13日に公開していたが、加筆修正が重なったので2017年11月27日に整理し、改めて公開した。
なお、ここから下の部分は2017年7月に公開した当時のものをそのまま残している。
その谷嶋が2017年現在で補職されている第1航空団は、初級訓練を終えたパイロットたちが次に赴き、中級訓練を行う航空団だ。
戦後、我が国が敗戦から立ち上がって以来、一貫して戦闘機パイロットの卵を育ててきた浜松基地であり第1航空団だが、やはり一般国民にはそのような認識は薄いのであろうか。
2017年3月に浜松基地が主催して行われた「航空機プラモデル製作コンテスト」というイベントがあったのだが、この際に応募があったのはわずか19作品。
なおかつ、中学生・高校生の部では17歳の少年がF-15戦闘機を製作し出品したのが唯一の作品であった。
もちろん広報不足もあったであろう。
また、今の子供たちはプラモデルなど作ったことがない、ということもありそうだ。
とはいえ、そのような背景を考えても、少なすぎである。
入選者には谷嶋自ら署名を入れた賞状が手渡される豪華なイベントであったにも関わらず、「総火演」のようにわかりやすいイベントと違い、国民の関心は薄い。
次のイベントでは私もガンプラを大量製作し、また子供たちにも製作させ、応募してみたいと思う。
◆谷嶋正仁(航空自衛隊) 主要経歴
平成
2年3月 航空自衛隊入隊(第34期)
2年9月 飛行教育集団司令部付(操縦学生・浜松)
5年5月 第3航空団飛行群(青森県・三沢)
13年1月 3等空佐
13年3月 幹部学校(東京都・目黒基地)
14年3月 外務省出向
16年3月 航空幕僚監部人事教育部人事計画課(東京都・市ヶ谷)
16年7月 2等空佐
17年3月 航空幕僚監部防衛部防衛課(東京都・市ヶ谷)
17年3月 航空幕僚監部防衛部補任課(東京都・市ヶ谷)
19年8月 航空幕僚監部運用支援・情報部(東京都・市ヶ谷)
20年6月 外務省出向(ポーランド防衛駐在官) 1等空佐
23年7月 航空幕僚監部運用支援・情報部情報課(東京都・市ヶ谷)
23年8月 航空幕僚監部運用支援・情報部武官業務班長(東京都・市ヶ谷)
25年8月 第3航空団飛行群司令(青森県・三沢基地)
26年8月 航空幕僚監部人事教育部厚生課長(東京都・市ヶ谷)
28年12月 第1航空団司令兼ねて浜松基地司令(静岡県・浜松) 空将補
【注記】
このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。
主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。
自衛官各位の敬称略。
※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。
【引用元】
防衛省航空自衛隊 浜松基地公式Webサイト(顔写真及び行事紹介)
http://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/kichishirei/
http://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/katsudoujyoukyou/index.html
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