【退役】大森丈義(北海道補給処長・陸将補)|第28期・陸上自衛隊

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大森丈義(おおもり・たけよし)は昭和37年3月生まれ、静岡県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第28期の卒業で幹候65期、出身職種は輸送であり、後方支援系のスペシャリストだ。

 

平成31年4月(2019年4月) 北海道補給処長兼ねて島松駐屯地司令・陸将補のポストを最後に退役となった。

前職は輸送学校長であった。

なお、最後の指揮官ポストとなった北海道補給処長としての指導方針は、以下の通りであった。

 

【統率方針】

任務の達成

【要望事項】

備えを持て

【島松駐屯地司令要望事項】

伝統の継承

地域とともに

(画像提供:陸上自衛隊島松駐屯地公式Webサイト

2018年3月から始まった「陸自大改革」は、戦力の集中と機動力の向上をその主眼とする、自衛隊始まって依頼の組織変革だ。

すなわち、主力戦車を機動戦闘車に換装し、大口径の野砲部隊を迫撃砲の部隊へと再編して、被輸送力を向上。

そして全国どこにでも直ちに駆けつけることができるよう、師団を機動師団に、連隊を即応機動連隊へと生まれ変わらせ、あらゆる敵の企図をその初期段階で潰すことを目的にしている。

もちろんその過程では、機動戦闘車には注目が集まり、諸職種協同となる即応機動連隊は時にメディアで特集を組まれるなど、広く国民に浸透することになった。

 

しかしその影で、この陸自大改革を支えたもっとも功績のあった職種は何かと聞かれれば、おそらく輸送科こそ、その最たるものの一つではないだろうか。

輸送科は、あらゆる兵装・人員、それに糧食や機材を、それぞれの拠点から最前線へと、何があろうとも迅速に、そして確実に送り届けることをその任務とする。

いくら鍛え上げた陸自の精鋭たちであっても、メシが届かなければ3日も戦えない。

小銃の弾が届かなければ、身を潜めるしか為す術がなくなる。

そういった意味では、この輸送科こそが戦闘の要であり、「即応機動連隊」も「機動師団」も、輸送能力が伴ってこその構想であると言えるだろう。

そしてその輸送科を長年に渡り支え続け、陸自大改革を輸送科出身の最高幹部として支えたのが、この大森であった。

決して目立つことはないが、彼ら・彼女らなくして自衛隊は戦うことすらできない。

そんな、兵站を支えつづけた指揮官が、長年に渡る自衛官生活に別れを告げて2019年4月1日に、制服を置いた。

 

確かに、ブルーインパルスはカッコいい。

巨大な  護衛空母  護衛艦も、正直一般公開されると足を運び、子供のようにはしゃいでしまう。

しかしその一方で、本当にカッコいいのはこのような、目立つことはないが絶対に無くてはならない仕事師たちではないだろうか。

寡黙に確実に、仕事をこなす兵站部門の人たちではないだろうか。

そんなことを考えさせてくれた大森の活躍であり、そして自衛官生活の素晴らしい実績の数々であった。

退役はとても寂しいことだが、輸送学校長のポストを始めとして、大森の教え子たちはこれからも自衛隊を支え、そして我が国と世界の平和のために貢献し続けてくれるだろう。

 

長い間、本当にお疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

久しぶりに迎える、任務のない毎日はどこか頼りなく感じられるかも知れませんが、まずはゆっくりとお花見にでも足を運ばれて、積年のお疲れをお癒やし下さい。

そして新たに始まるであろう第二の人生も、自衛官生活と同じか、もしくはそれ以上に充実したものとなりますことを、心よりお祈り申し上げます。

重ねまして、本当にありがとうございました。

【更新】2019年4月4日

 

※以下は、2018年11月までに更新分の記事

 

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2018年11月現在、北海道補給処長兼ねて島松駐屯地司令を務める大森だ。

後方支援のスペシャリストであり、輸送科出身の最高幹部として、我が国の兵站実務を担い続けてきた

 

2018年3月に実施された陸自大改革は、誤解を恐れずに言うと陸上自衛隊の火力を大幅に削減するドクトリンに本格的に舵を切った、歴史的な出来事になった。

しかしその要諦とするところは、陸上自衛隊の重要性を否定するものではもちろん無い。

むしろその逆で、陸海空の役割分担をより明確にすることで、陸自の存在感と役割をさらに重視する、非常に印象深い改革になったと言えるだろう。

そしてその大改革の結果、職種としての重要性が極めて大きくなっているのが、この大森が長年務めてきた輸送科であり後方支援系の職種と言ってよいが、それはなぜか。

そのお話は後述するとして、まずは大森の話を進めていきたい。

 

後方支援系の職種で、行き着くところまで行った大出世と言えば、一つには職種学校長であり、さらにもう一つは補給処長のポストだ。

大森は、前職で輸送学校長を務め、その後職として我が国最大の方面隊である北部方面隊を兵站から支える、北海道補給処長を務めている。

もはや、職種部隊の指揮官としてはこれ以上のポストはないと言っても良い最高幹部であり、後は師団長クラス以上の補職があるのみだ。

そんなトップエリートの大森のことなので、数多くの印象深いポストを経験しているが、ここでは敢えて、少し変わり種のポストを経験した際の大森のことを、ご紹介したい。

実は大森は、平成16年から2年間、総務庁消防庁に出向し、国民保護運用室長のポストを務めている。

最高幹部に昇るコースに乗っていた自衛官として、消防庁の要職に、いわばレンタルされた形だ。


(画像提供:防衛省防衛白書2005公式Webサイト

この画像は、消防官の制服を着用し任務に励んでいた日々の大森を撮影した、貴重な一枚である。

平成16年当時なので、まだ40代前半のナイスガイだ。

この時、大森の担当した仕事は、平成15年に成立した「国民保護法」の骨格を作るため、防衛省と消防庁が一体となり具体的な組織と運用づくりにあたる、その実務責任者としてのものであった。

国民保護法は、有事の際の住民避難や安否確認などを行い、また武力攻撃や大規模災害が発生した場合、どのようにして防衛省や消防庁、警察機関などが一体となって国と国民を守るかを定めたものだ。

大森はこの職務にあった時をして、

「これまで絵空ごとの世界で論じられていた国民保護が、共通にイメージできる世界となった」

と、後日その成果を振り返っているが、このような国家的有事や大規模災害を想定した法律や仕組みがそれまで無かったという方が、ある意味で異常な状況であったと言ってよいだろう。

そして大森が尽力し、この国家的大事業を形にしてから僅か5年後、あの東日本大震災が発生した。

もし国民保護法が施行されておらず、あるいは大森以下、関係者の組織や運用づくりにかけた尽力が無ければ、あの震災ではさらに混乱が広がり、そして多くの生命が失われていたはずだ。

そう言った意味で、大森がこの消防庁出向時代にやり遂げた仕事は、我が国の歴史に残る非常に大きな仕事であったと言ってよいだろう。

ぜひ、大森の活躍をご紹介するにあたり、まず記しておきたかったエピソードだ。

 

では、そんな大仕事をやり遂げ、また現在も取り組んでいる大森とは、どんなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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