小谷琢磨(こたに・たくま)は昭和40年1月生まれ、和歌山県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第32期の卒業で幹候69期、出身職種は施設だ。
平成29年8月(2017年8月) 第4施設団長兼ねて大久保駐屯地司令・陸将補
前職は陸上幕僚監部防衛部施設課長であった。
なお、第4施設団長及び駐屯地司令としての指導方針は以下の通り。
【統率方針】
任務完遂
【要望事項】
基本基礎の確行
明るく逞しく
【駐屯地司令要望事項】
地域から信頼される大久保駐屯地
(画像提供:陸上自衛隊大久保駐屯地公式Webサイト)
(画像提供:陸上自衛隊大久保駐屯地公式Webサイト)
2019年3月現在、第4施設団長兼ねて大久保駐屯地司令を務める小谷だ。
第4施設団は中部方面隊隷下にあり、京都府の南部、お茶の生産で有名な宇治市の大久保駐屯地に所在している。
大久保駐屯地は近鉄電車の大久保駅すぐ目の前、近畿圏に所在する駐屯地としては例外的に、急行が停車する主要駅のど真ん前に位置し、駐屯地正門までは徒歩1分ほどで行けるとても便利な場所にある。
朝夕に駐屯地の周辺を歩いていると、フェンス越しに体を鍛える自衛官の姿が見られ、距離感もとても近くに感じられるなど、管理人がとても好きな駐屯地の一つだ。
なおその大久保駐屯地だが、災害派遣の担当地域は京都府南部だけでなく、広大な奈良県全域もその警備隊区とする。
通常、陸上自衛隊の駐屯地と言えば各都道府県に最低でも1つは設置をされているものだが、大変残念なことに全国で唯一、奈良県にだけ陸自の拠点がないことによるものだ。
そのため奈良県は、海無しの山間部でもあり、本来南海・東南海地震発生時には、周辺各地への救援拠点として機能すべき場所であるにも関わらず、一方的に助けてもらう側になってしまっている。
ちなみに管理人は、その奈良県に在住している。
非常に恥ずべき状況であり、奈良県に陸自の駐屯地を誘致し、防災・減災の拠点としても機能するために、小さなことから運動をしていきたいと強く考えている。
小谷に話を戻したい。
その小谷は施設科出身の陸将補だが、これだけの要職に上番する最高幹部だ。
全ての補職が印象的だが、敢えて一つ挙げるとすれば、それは平成23年4月から務めた、第11施設群長のポストだろうか。
勘のいい人ならすぐにおわかり頂けると思うが、この着任時期は東日本震災の僅か1ヶ月後であり、そして第11施設群は福島市に所在する部隊である。
それから小谷は2年4ヶ月に渡り被災地の陣頭に立ち、フル稼働で復興支援を続け、もっとも厳しい現場でもっとも動き続けた自衛官の一人となった。
当時の任務がどれほど過酷なものであったのか。
小谷の肉声を伝えるメディアはないが、震災翌日に被災地入りした別の施設出身幹部の証言が、当時の状況を生々しく伝えている。
それは以下のようなものだ。
「私たちは正直、ほとんどの自然災害には自衛隊の施設科で対応できると思っていたが、東日本震災はあらゆる想定を越えていた。」
そして、津波によって破壊され積み上げられた瓦礫の山があらゆるインフラを破壊し、道路を埋め尽くす光景に呆然とする。
震災発生から24時間以内に現地入りしたにも関わらず、生存者の捜索活動にすら入れない。
まず瓦礫をどけないことには、捜索担当地域に入ることすらできない。
自衛隊の施設科をもってしてもその行く手を阻まれるということはつまり、もはや我が国のどんな組織であっても、対応能力を超えた事態が発生しているということだ。
しかしそれでも、国家の最後の砦たる自衛隊に、諦めるという言葉は存在しない。
実行可能なことから積み上げて、できることをひとつひとつ積み上げていった。
それほどの困難な現場にあって、人命救助から復興まで2年4ヶ月。
震災の直後から福島で任務にあたった小谷はまさに、そのど真ん中で汗をかき続けた幹部となった。
黙して何も語ることはないが、心身ともに非常に過酷な任務であったことだけは間違いない。
そんな難しいポストなどで活躍を続け、そして陸将補に昇りさらに活躍を続けている。
では、そんな要職を歴任してきた小谷とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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