【退役】糟井裕之(自衛艦隊司令官・海将)|第29期・海上自衛隊

糟井裕之(かすい・ひろゆき)は昭和38年1月生まれ、滋賀県出身の海上自衛官。

防衛大学は第29期、幹候は36期のそれぞれの卒業だ。

 

令和2年8月(2020年8月) 自衛艦隊司令官・海将として、長きにわたる自衛官生活を終え、制服を置いた。

前職は護衛艦隊司令官であった。

(画像提供:海上自衛隊護衛艦隊司令部公式Webサイト

2020年8月、海上自衛隊においてもっとも誇り高いポストの一つと言っていいだろう。

自衛艦隊司令官を務めた糟井が、長きにわたる自衛官生活に別れを告げて制服をおいた。

 

ご存知のように自衛艦隊は、海上自衛隊のほぼすべての実力組織を統率する組織だ。

戦前で言えば、有事には連合艦隊司令長官と同等の職責を与えられることになるポストに相当する。

そのポジションに誰が着任するのか、といった人事そのものが、政治的メッセージと言っても良いほどの要職である。

 

事実。

自衛艦隊司令官は戦後、海上自衛隊のトップである海上幕僚長に、もっとも近いポストであり続けたことは、以下のデータが物語っている。

 

・自衛艦隊司令官(5号・9回)

・海上幕僚副長(3号・8回)

・横須賀地方総監(5号・7回)

・佐世保地方総監(5号・6回)

※号数は2020年9月現在での指定職号数。回は後職で海幕長に着任した回数。

 

海上自衛隊においてそれほどまでの要職を務めた糟井であったが、では糟井とは、「てっぺんの椅子」に昇りそこねた、無念の退役であったのか。

言うまでもないことだが、もちろんそんな妄想は的外れだ。

実は陸海空の3自衛隊では、海上自衛隊がもっとも、現場指揮官として退職の日を迎えることを誇りとする文化が根強くある。

 

都心・市ヶ谷のビル群から、海上幕僚長として見送られる退役の日も、もちろん誇りあるものだろう。

しかし海自では、それよりも、より現場に近いポストから最後の日を迎えたいと考える最高幹部がとても多い。

 

それもある意味で納得で、自衛艦隊司令官の退役の日は、将官艇に移乗して令夫人とともに見送られる伝統がある。

糟井の退役の日の画像は見つからなかったが、前任である山下万喜(第27期)の退役の日は、以下のようなものであった。

(画像提供:海上自衛隊自衛艦隊司令部公式Webサイト

海の男として、これほど思い出深い最後の日はないはずだ。

おそらく糟井も、このような最高の礼遇を持って、最後の日を迎えのではないだろうか。

そしてそれは、海上幕僚長に昇ることとはまた違う、誇りある自衛官に対する国家からの、最大の礼遇である。

 

なお余談だが・・・

日本どころか世界屈指の海上の実力組織を統率した糟井は、海無し県である滋賀県の出身である。

そして管理人(私)も大学を卒業するまで滋賀県で過ごしたのだが、滋賀県を含む近畿地方は、伝統的にリベラル勢力が強い土地柄である。

つまり、海無し県で、自衛隊に対するアンチが根強い滋賀県から、世界屈指の提督が生まれたことになる。

そのことも、同郷として心から誇りに思っている。

 

糟井海将、長きにわたる任務、本当にお疲れさまでした。

ありがとうございました。

そのご活躍の軌跡は、自衛隊ファンだけでなく、多くの心ある日本人の記憶に残り続けるでしょう。

その誇りある自衛官人生に、心からの敬意と感謝を申しあげます。

 

糟井海将の第2の人生も、自衛官生活と同等かそれ以上に、充実したものとなりますことを、心からお祈り申し上げております。

(2020年9月7日 最終更新)

 

ーーーー

以下は、在職時に更新していた記事のアーカイブです

ーーーー

 

2019年4月現在、海上自衛隊のほぼ全ての実力組織をその指揮下に収める、自衛艦隊を指揮する糟井のご紹介だ。

自衛艦隊司令官はその名前から、時に水上艦艇を指揮する指揮官と誤認されることもあるが、そのイメージは糟井の前職である護衛艦隊である。

自衛艦隊は、護衛艦隊はもちろん、海自の航空戦力である航空集団、我が国が世界に誇る潜水艦隊、海の殴り込み屋である掃海隊群などの実力組織に加え、各種業務支援群もその隷下に収めている。

事実上、海上自衛隊の最高指揮官と言って良いだろう。

次の海上幕僚長にもっとも近いポストの一つである、要職中の要職だ。

 

これだけのポストを任される糟井である。

そのキャリアは非常に充実しており、第1護衛隊群を務めていた頃には、史上初となる日印合同軍事演習の統裁官を務めている。

また2011年9月には、日露捜索・救難共同訓練においても訓練統制官を担い、若狭湾にロシア海軍太平洋艦隊を迎えるなど、軍人外交の現場経験も抜かりない。

しかしその中でも、糟井のもっとも印象深い仕事といえば、第1護衛隊群司令の時に発災した、東日本大震災での活躍だろうか。

東日本大震災の発生時、第1護衛隊群司令であった糟井は横須賀にいたが、震災発生時は不規則な勤務の合間であったのだろう、横浜のスーパー銭湯で汗を流している最中だった。

想像を絶する大きな揺れに慌てて車に飛び乗り司令部に戻ろうとするも、道路は既に大渋滞でなかなかたどり着けない。

なんとか司令部にたどり着くと、そこで得た現実は想定をはるかに超えた惨状であり、直ちに災派(災害派遣)に取り掛かった。

隷下部隊に慌ただしく指示を出し、命令を捌いていた糟井であったがその時、中央から重要な命令が下りてきた。

この国家的非常事態に際し、国際経験の豊かさが評価されたのであろう、「トモダチ作戦」の日本側責任者を務めよというものであった。

命令を受けると糟井は直ちに、モダチ作戦を統括する米空母「ロナルド・レーガン」と連携し事態の対処にあたる。

そして、米軍の支援が必要な場所、米軍の支援でしか救出に行けない場所に支援を要請し、また自らも隷下の第1護衛隊軍を率いて直ちに被災地入りした。

 

この時の糟井の活躍はまさに鬼気迫るものがあり、

「救助を優先しろ、多少の被害があってもいいから一人でも多くの人を救え!」

と下令。

護衛艦で近づけない、瓦礫で一杯になった海岸にはLCU(小型の汎用上陸艇)で接近して人命救助にあたるなど、まさに「多少の被害は気にするな」を地で行く、鬼気迫る救出活動を実践する。

まさに戦闘状態とも言える危機意識で最前線に立ち、ギリギリの決断で指揮を執った。

その人命救助に掛ける熱意は凄まじく、自衛艦隊司令部から危険すぎるとしてストップがかけられるほどであった。

しかしこの時、熱い想いを共有していたのは糟井だけはない。

「皆が行きたがっていた」と糟井自身も後に語るなど、隷下の幹部曹士全員が熱い心と使命感で救助にあたっており、有事に際して我が国の自衛隊がどれほど頼りになるのか。

その士気の高さを存分に見せてくれた出来事となった。

悲惨な災害であったが、その舞台裏で糟井はギリギリの救助活動を行い、そして米海軍とも密接に連携を取りながら最善を尽くした。

我が国の自衛艦隊司令官に昇るような最高幹部とは、どのような人物なのか。

ぜひ、その理解をする上で知っておいて欲しいエピソードである。

 

なおこの震災では他に一つの話がある。

当時東北方面総監であり、自衛隊史上初めて陸海空を統括するJTF-TH(Joint Task Force – Tohoku)司令官に着任し10万人の自衛官を率いた君塚栄治は、当時の防衛大臣である北沢俊美から、

「死体を発見した場合、生きている人と同じように丁寧に扱って下さい」

と要請されたが、これを隷下指揮官たちに伝える際、

「死体を発見した場合は、自分の身内と思って扱え」

と言い換えて下令した。

その方が全ての隊員に対し、より直感的に自分のなすべきことが伝わると考えたとのことだ。

能力だけでなく用兵の機微まで心得ており、またその命令は現実的であり、なおかつ優しさに溢れている。

君塚は結局、この時の仕事ぶりが認められ、東北方面総監から史上初めて陸上幕僚長に昇ることになった。

これもまた、震災を巡ってぜひ一人でも多くの人に知ってほしいエピソードである。

 

なお君塚は、陸上幕僚長を退官したわずか2年後、2015年に63歳の若さで肺がんにより逝去された。

君塚にはもっともっと、日本のために様々な形で力を尽くしてほしかった。

本当に痛恨の極みであり、残念でならない。

 

では、そのような厳しい現場で数々の功績を残してきた糟井とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

コメントを残す