2019年8月23日、一人の自衛官が35年に渡る自衛官人生に幕を下ろし、制服を置いた。
陸上自衛隊の陸将・田浦正人(たうら・まさと)だ。
退役時のポストは陸上自衛隊の序列で言うとNo.2と言って良いだろう、北部方面総監であった。
しかしながら、これほどまでの階級とポストを務めた自衛官であっても、率直に言って田浦の名前など、日本国民の誰も知らない。
さすがに、当ブログを愛してくださる多くの読者の皆さんはご存知頂いているかも知れないが、それでもなお、田浦が現役時代に成し遂げた多くの功績まで知る人は少ないはずだ。
今回、その田浦が制服を置いたタイミングで改めて、その誇りある自衛官人生を記事にさせて頂きたいと思い、筆を進めている。
何故か。
田浦が文字通り、我が国と世界の平和のためにその人生を捧げ続けた事実を、1人でも多くの国民に知って欲しかったからだ。
もちろん田浦に限らず、今年入隊したばかりの2等陸士、2等海士、2等空士であっても、皆が皆、それぞれのポジションで懸命に職責を果たしている。
今や私たち日本国民の多くが、自衛隊という組織と、そこで実直に働く多くの隊員を堂々と応援できる時代になった。
管理人(私)もその想いは同じであり、誰か特定の自衛官の活躍だけをことさらに持ち上げるのは本意ではない。
しかしそれでもなお、私は田浦正人(第28期)という男には、特別の敬意を抱いている。
それは田浦が文字通り、「ことに望んでは命の危険を顧みず」、我が国と世界の平和のために戦い続けた自衛官人生を送ってきたからだ。
今回は、そんなお話をしていきたい。
(画像提供:小島肇・元2等陸佐)
突然だが、この画像は防衛大学校に在学していた当時の田浦である。
28期なので、昭和58年~59年頃の画像だ。
防衛大学校では同期の会長を務め、そして卒業後、初任地として第12戦車大隊(相馬原)に配属となり、同地で厳しい自衛官生活のスタートを切った。
ちなみに自衛官を志した動機だが、
「腕試しで防衛大学校を受けたら受かってしまった」
「特段、深い考えはなかったが、防衛大学校で小隊指導官の指導を受けるうちに、本気で国防を志すようになった」
という、意外に軽いものであった。
そう言えば、現・航空幕僚長の丸茂吉成(第27期)も、「自衛官になった当初は、数年で自衛隊を辞めようと思っていた」と、メディアに語っていたことがある。
案外、大成する将器の人というのは、実は肩に力が入っていない、自然体の人が多いのかも知れない。
その後、中隊長ポストは同じ相馬原の第12戦車大隊・第2中隊長で、大隊長は滋賀県の琵琶湖のほとりに所在する3戦車大隊長で経験。
さらに連隊長ポストは、北方の精鋭であり、「白馬」の愛称で知られる第72戦車連隊長を。
そして師団長ポストは、「機甲師団」の尊称で知られる第7師団長で着任した。
つまり、機甲科の幹部として小隊長、中隊長、大隊長、連隊長を全て経験しただけでなく、機甲師団長まで経験するという、まさに機甲科の現場で生き続けた幹部であった。
意外に思われるかも知れないが、機甲科の幹部でこれら全てのレイヤーで指揮官ポストを経験したのは、実は田浦が史上初である。
そしておそらく、これからもまず現れないだろう。
それほどまでに、現場に生き、現場とともにあった幹部であった。
(画像提供:防衛省公式Webサイト)
そんな田浦の自衛官人生で、大きな転換点となったのはやはり平成16年8月である。
田浦はこの年、第2次イラク復興業務支援隊長として、サマーワに渡るという極めて厳しい任務を下令された。
現在、「ひげの隊長」として知られる佐藤正久(第27期)・参議院議員だが、我が国の自衛隊が戦後初めて、イラク戦争の爪痕が生々しい現地に渡った時。
その初代隊長をつとめたのが佐藤だったわけだが、その佐藤の後を継いで、第2次イラク復興業務支援隊長を務めたのが田浦であった。
そして田浦がイラクにあった時は、実は2年半に及ぶ自衛隊イラク派遣において、もっとも危機的な状況を迎えていた時期でもある。
現地の武装勢力に、日本人3人が人質として拉致されたのもこの時だ。
また、自衛隊がイラクに在った時、宿営地には合計で14回の弾着が観測されているのだが、そのうちの実に半数が、田浦が指揮を執っていた半年間に生起している。
これほどまでに厳しい任務を下令された時。
田浦は日本を出立する前にまずはじめに妻の両親に充てて、
「自衛官に嫁がせたばかりに、ご心配をお掛けして申し訳ありません。しかし、私には仕事があります。行かせてください」
と手紙を書いたそうだ。
また妻と子供には、
「これが父の仕事だ。お父さんに何かあったらお母さんをしっかり頼む。」
といい置き、現地に渡っている。
ちなみにこの時、田浦の子供たちはまだ、小学校3年生と幼稚園児であった。
常に死を覚悟している仕事とはいえ、さすがにこの時ばかりは後ろ髪を引かれたのではないだろうか。
それでもなお、我が国の国益と世界の平和のために、田浦は死を覚悟して現地に渡り、そして自分自身と部下の命も守り抜いて、無事に帰国を果たしている。
(画像提供:陸上自衛隊第1ヘリコプター団公式Webサイト)
さらに、田浦の厳しい任務は続く。
平成23年3月に発生した、あの未曾有の大災害となった東日本大震災では福島原発の現地対策責任者として原発の中に本拠を構え、指揮を執った。
文字通り、国家の危機に際して最前線に立った指揮官である。
福島原発対処現地調整所長という肩書きだが、要するにあの福島原発を制御することを託された、国家の命運をその双肩に託された前線指揮官であった。
当時田浦は既に将官であったが、まさか直面する敵が放射能になるとは思いもしなかったのではないだろうか。
なおこの時、田浦はとても印象深い言葉を残している。
要旨、実は震災当初、米軍は福島原発を中心に一定の距離をおいて、絶対に立ち入ってはならない制限区域を設けていたそうだ。
しかし第1ヘリコプター団の、福島原発への決死の放水作業を見た米軍はこの制限を解除し、直ちに持ちうる全戦力を投じて、「トモダチ作戦」に移行したと。
つまり、
「自衛隊が命をかけるなら、俺たちも命をかけてトモダチを守る」
という米軍の、強い同盟の意思表示を行動で示したということである。
このことは余り知られていないが、実は米軍は、CH-47チヌークによる決死の放水作業までは、やや距離を置きながらの支援活動であった。
しかし、軍人同士のシンパシーは私たち一般人の想像を遥かに超える。
自衛隊が命の危険を顧みずに、国土と国民を本気で守る意思表示を行動で示したら、必ず助ける。
米軍はそのことを、このギリギリの局面でも示したということだ。
「お前はホンモノの、俺のバディだ!」と。
その後の、東日本震災における田浦を始めとした自衛隊幹部曹士の活躍に、多くの説明や言葉は要らないだろう。
私たち国民の、自衛隊への認識を大きく変えることになった出来事の最前線に立っていたのが、この田浦という男であった。
そしてここからが、この記事をご覧いただいている読者の皆さんにぜひ見てもらいたい本題である。
実は私は、この誇りある第37代北部方面総監・田浦正人の離任式に、立ち会うことを許された。
正確には、先述の小島肇・元2等陸佐の撮影スタッフの1人として、マスメディアの一員として取材を許された。
取材クルーの1人としてではあるが、一般人ではまず見学することすら許されない田浦正人・第37代北部方面総監の離任式の模様を、次ページからレポートを差し上げたい。
ぜひ、ご覧頂きたいと思う。
管理人様、流石北部方面総監離任式ですね、田浦総監のお人柄が、部下の方々の表情にも出ていますね、戦車乗りらしく小柄な体格と笑顔そして北海道の蒼穹、Yutubeで見るととても良く解ります、田浦総監も機甲一筋に自衛隊人生を終えられ多分満足だと思いました、北海道迄の取材お疲れ様でした、今後のご活躍期待しております。
すーさん!!
早速ご覧いただきましてありがとうございました!
はい、全く同感でした。
部下の方の表情を見れば、田浦さんがどのような指揮官であったのか、よくわかります。
感動の離任式でした!
自衛隊下士官出身者に自衛隊に武士道はありますかと訊ねたところ知りませんと言われました。しかし幹部クラスは武士道があるようで頼もしく感じました。戦後民主主義は武士道を否定しているようですが、残念です。不戦憲法を改正し、拉致被害者奪還侵攻作戦が自衛隊ができるようにすべきです。国民の生命が守られているとは言いがたい。拉致被害者救済の選択肢も広がる。
福島原発対処現地調整所長として対処を指揮した時に、機動隊放水隊のメンツを立てた采配は武士の姿と思いました。素晴らしい人格者です。
そのようなエピソードがあるのですね・・・
田浦さんらしいです。
本当に誰にお聞きしても、田浦さんのお人柄を悪く言う人を聞いたことがありません!
田浦さんが幹部候補生学校長の時、私も丁度、幹部候補生でした。気さくな感じで、学校長講話も毎回、面白かったです。よく駆け足をされていて、時たま、授業に乱入してきたのは驚きましたが(笑)
学校長要望事項の「何も考えずに一歩前!」は、未だに私の信条です!
しがない一幹部様、書き込みありがとうございます!
田浦校長のご様子が目に浮かぶようなエピソードですね!
それにしても、部隊では「よく考えて、前へ!」が要望事項でしたが、学生には「何も考えずに一歩前!」だったのですね。
若手幹部(候補)への要望事項としても、本当に田浦さんらしくてほっこりさせて頂きました。
ありがとうございました!
陸将補時代にお世話になりました。一言で言えば圧倒的カリスマ性のある人でした。とにかく人を惹きつけ、力を与える能力が凄かった。
元様、コメントありがとうございました。
元自衛官でいらっしゃるのですね。
本当に、お仕事お疲れさまでした。
私自身、一度だけお会いさせて頂きましたが、そのお人柄と笑顔に、本当に惹きつけられました。
一緒にお仕事ができたこと、羨ましく思います!