陸将まで昇った男であり、その経歴はどれも特筆するべきものに溢れているが、あえて一つ挙げるとすれば、第1ヘリコプター団長時代の活躍だろうか。
第1ヘリコプター団は中央即応集団隷下にある部隊で、中即団隷下の各部隊、とりわけ第1空挺団と密接に協力しあい、その空挺降下を支援し、また航空偵察や物資の輸送といった空輸業務、要人輸送までもこなす非常に幅広い任務を負っている。
金丸はこの組織のトップに在った時に、2011年3月11日、東日本大震災を迎えている。
東日本大震災の中でもっとも印象に残った場面と言えば何か。
こう聞かれた場合、おそらく多くの人が、福島第一原発への自衛隊機からの放水をあげるのではないだろうか。
そしてあの国難に際し、CH-47チヌークによる放水作業を行ったのはまさに第1ヘリコプター団であり、金丸たちであった。
当時の事は金丸自身も折に付け講演会なので語るが、隷下隊員たちの士気は極めて高く、実際に死の危険が伴う任務に、誰一人腰が引けている者などいなかったという。
それどころか当時、陸上幕僚長を務めていた火箱芳文(18期)自らも、「あいつらだけを死なせるわけにはいかない、俺が行く、俺ももう60を越えているから放射線を浴びてもなんてことはない」と言い出したと言う。
さすがにこれは実現しなかったが、現場隊員及び指揮官、部隊指揮官、最高指揮官に至るまで、あの作戦を決行した陸自隊員たちの心意気とはそのようなものであった。
そして金丸以下、第1ヘリコプター団隊員たちによる決死の放水活動は衝撃的な映像として全世界に中継され、自衛隊の「本気度」が全世界に伝えられることになった。
自衛隊はいざという時、自らの生命を掛けてもこの国を守り抜く。
その強い意志を世界に示し、世界もまたその強い意志を受け止め、これ以降明らかに各国の支援体制が切り替わったという。
当時第1ヘリコプター団の上級組織であるCRF(中央即応集団)司令官であった宮島俊信(第20期)は、当時を振り返り、この放水活動以降にアメリカ軍の支援体制は明らかに変わったと述懐している。
国民と自衛隊が本気で国を守ろうとしている姿を見せれば、同盟国であるアメリカ軍の本気モードにもスイッチが入ったと、軍人とはそういうものだと振り返るが恐らくそういうことなのだろう。
あの災害では、アメリカ軍の支援部隊までもが福島第一原発入りし、至近距離で放水と鎮火活動に当たるという、まるで自国内の災害であるかのような対応を見せ、文字通りの「トモダチ作戦」を展開し、同盟の絆が強いことを内外に示した。
そんな姿に奮い立った日本国民もまた続々と被災地に駆けつけ、自らに出来ることを模索し、本気の支援に立ち上がったが、そのきっかけになった出来事になったといっても良いだろう。
その中心には第1ヘリコプター団があり、金丸はそのど真ん中で、この決死の精鋭部隊を指揮し国難に体を張って立ち向かった。
それから随分と時間が経った気がするが、おそらく金丸にとって、生涯もっとも忘れ得ない任務の一つとなったのではないだろうか。
(画像提供:陸上自衛隊関東補給処公式Webサイト)
さて、そのような勇気と決断力に溢れる金丸だが、いきなり身も蓋もないことを言うようだが、この記事をポストしてから間もなくして、長かった自衛官生活に別れを告げる事になる見込みだ。
自衛隊では同期からトップ(幕僚長)が選抜されると、それ以外の同期高官は原則として、キリの良いところで退役となる。
そして27期組は、既に山崎幸二(第27期)が2017年8月に陸上幕僚長に着任しており、出世レースは完全に終わっている状況だ。
金丸については、補給統制本部長に着任したのが2017年3月であったが、いわゆる”南スーダン日報問題”とされた一連の問題で岡部俊哉(第25期)が詰め腹を切らされたのが2017年8月。
山崎はこの後任として陸幕長に昇ったが、もちろん予定されていた時期の人事ではなく、補給統制本部長に着任して僅か4ヶ月であったことから、現職にとどまり続けている形だ。
他にも、小林茂(第27期)・中央即応集団司令官も、2018年3月の同集団廃止まで司令官ポストにあり続けたが、3月で退役となるだろう。
あるいは金丸も、このタイミングで小林とともに退役になる可能性が高い。
そしてそれは、この記事をポストしてからおそらく3週間以内ではないだろうか。
どれほど優秀な者であっても、自衛官には必ず退役の時が来る。
そして将官人事が動くのは大きく7~8月、12月、そして3月だ。
真冬で雪が降りしきり、間もなく年末を迎えようとする12月下旬の世相の中、北部方面隊や東北方面隊を去っていく将官の離任(退役)行事は本当に見ていて寂しいものがある。
それに比べると、日差しが力を回復し、空気も桜のつぼみも緩み始めた3月に自衛隊を去る将官の離任式はどこか華やかで、そのやりきった人生を感じさせる感動的なシーンになる。
27期組で残っていた山崎以外の将官の多くはおそらく、今回の人事で自衛隊に別れを告げる事になるだろう。
名将・金丸についてもその時が近づいている可能性が高いが、最後の最後までしっかりと応援し、注目していきたい。
※
本記事は当初2017年9月23日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年3月8日に整理し、改めて公開した。
※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。
(画像提供:陸上自衛隊関東補給処公式Webサイト 広報誌第33号、第36号)
◆金丸章彦(陸上自衛隊) 主要経歴
昭和
58年3月 陸上自衛隊入隊(第27期)
平成
6年1月 3等陸佐
9年7月 2等陸佐
14年1月 陸上幕僚監部調査部 1等陸佐
14年8月 陸上自衛隊幹部学校付
15年8月 陸上自衛隊幹部学校教官
15年12月 陸上幕僚監部人事計画課企画班長
17年12月 中部方面航空隊長
19年3月 陸上幕僚監部厚生課長
21年7月 陸上自衛隊第1ヘリコプター団長
21年12月 陸将補
23年4月 陸上自衛隊航空学校長
24年12月 第3師団副師団長
26年3月 西部方面総監部幕僚長
27年12月 陸上自衛隊関東補給処長兼霞ヶ浦駐屯地司令 陸将
29年3月 陸上自衛隊補給統制本部長兼十条駐屯地司令
30年8月 陸上自衛隊補給統制本部長兼十条駐屯地司令のポストを最後に勇退
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