倉田裕は昭和39年8月16日生まれ、第6代ブルーインパルス飛行隊長を務めた航空自衛官。
防衛大学校第31期の卒業で幹候77期、職種はもちろん操縦であり、TACネームはDUNKだ。
平成28年3月(2016年3月) 航空自衛隊第5術科学校副校長・1等空佐
前職は第3航空団副司令であった。
(画像提供:航空自衛隊三沢基地公式Webサイト 広報誌みさわ403号)
2018年7月現在、航空自衛隊第5術科学校副校長を務める倉田だ。
第5術科学校は愛知県の小牧市に所在し、主に航空管制官の養成をすることで知られる。
陸海自衛隊で航空管制に携わる要員の委託教育も行っており、航空自衛隊とのカルチャーショックをここで初めて感じる曹士自衛隊員も多い、独特の存在感を持つ学校である。
しかしそれよりも、と言っては失礼だが、倉田はやはり「蒼の衝撃」、栄光のブルーインパルスにおいて第6代飛行隊長を務めた事が、非常に印象的なキャリアとなっている。
倉田が松島に所在する第4航空団第11飛行隊長、つまりブルーインパルスの隊長を務めていたのは2006年4月1日から2008年3月31日までの2年間。
この記事をポストしているのは2018年7月なので、もう10年以上も前ということになるが、今も倉田の栄光の翼を心に深く刻みつけているファンはとても多い。
なお管理人も、生でブルーインパルスの演舞を見学させて頂いたことがあるが、初めてみた時は本当に感動で鳥肌が立った。
人の営みの凄さや挑戦には限界がないことを、澄み切った大空をキャンバスにして、ブルーインパルスの蒼い翼は表現してくれる。
意味もなく勇気をもらい、何かに頑張れそうな気がする。
ブルーの翼は見ている者に、そんな力を与えてくれる。
是非一度は現地で見て欲しい、我が国の誇りといって良い部隊である。
なお当たり前の話だが・・・
空中に描くハートや五輪を、空自が発表する主要会場直下の地上から見学しないと、間延びしたようなびろーんとしたような形に見えることがある。
管理人は、空自発表の会場から演舞の方向に対して下方2kmほどの視点で見学したことがあるのだが、この際はハートマークが縦長のハート型チョコレートのように見えてしまい、感動というよりも思わず笑ってしまったことがある。
このように感じた場合、それはブルーインパルスのパイロットが失敗したわけではなく、貴方の立っている場所が公式会場ではないせいである。
くれぐれも、誤解の無いようにして欲しい。
話を倉田に戻す。
ブルーインパルスの隊長には、ラストフライトを終えて部隊を去る時に、ブルーの翼に思いを込めた言葉を残していく伝統がある。
そしてこの時に、倉田が部隊に遺した言葉は「道」。
ちなみにブルーインパルスは、現隊長の福田哲雄(第45期相当)が第12代目にあたる。
初代の田中光信(航空学生第24期)から、歴代のブルーインパルスパイロットが遺した言葉は、以下の通りだ。
田中光信(航空学生24期) 『魁』
阿部英彦(第22期) 『爽』
塩澤信行(航空学生28期) 『夢 感動』
渡邊弘(航空学生32期) 『風』
西村弘文(第29期) 『墨』
倉田裕(第31期) 『道』
山口英章(第33期相当) 『心』
渡部琢也(第35期) 『絆』
田中公司(第38期) 『櫻』
日髙大作(第40期) 『挑』
稲留仁(第41期相当)
※第11代飛行隊長で、2018年3月にラストフライトを迎えた稲留については、判明次第加筆。
それぞれに、個性あふれる隊長らしい言葉を残しているのが印象的だ。
倉田については、『道』という言葉に果たしてどんな思いを託したのだろうか・・・。
それにしても、第3代の塩澤だけ2つとは、なかなかの欲張りである。
最後2つまで絞ったのに、どうしても絞りきれなかったのだろうか。
では、そんな栄光のブルーインパルスを率いた倉田とはどのようなキャリアを歩み、またその後、どんなキャリアを歩んだのか。
少し詳しくみていきたい。
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