深谷克郎は広島県出身の海上自衛官。
広島大学を卒業し、昭和62年3月の海上自衛隊入隊なので、幹候第38期の防衛大学校第31期相当ということになる。
生年月日は判明しないが、第31期はストレートの場合、昭和39年度生まれの年次にあたる。
平成29年8月(2017年8月) 阪神基地隊指令・1等海佐
前職は舞鶴教育隊司令であった。
(画像提供:海上自衛隊阪神基地隊公式Webサイト)
(画像提供:海上自衛隊阪神基地隊公式Webサイト)
2019年2月現在、阪神基地隊の司令を務める深谷だ。
我が国が世界に誇る潜水艦隊の幹部であり、大阪湾から紀伊水道にかけての航路啓開や防衛警備の任務にあたる。
掃海隊の母港としても知られ、2019年3月4日現在で海上幕僚長を務める村川豊(第25期)も、2009年3月から2010年7月まで司令を務めるなど、近年その任務の重要性がますます注目されているポストだ。
これほどの要職に補される深谷である。
そのキャリアはいずれも印象深いポストばかりだが、敢えて挙げるとすれば、それは平成20年7月から務めた、米中央軍司令部連絡官の任務だろうか。
一般には全く知られていないであろうポストだが、米中央軍は米軍において、中東と一部の中央アジアで作戦を展開し、指揮する部隊となっている。
もちろんイラク戦争を指揮した部隊でもあり、イラク戦争に続くアフガニスタンにおける戦闘でも、この部隊が指揮を執った。
つまり、その米中央軍に連絡官として赴任するということは、同盟国として米国の動向や真意を探り出し、我が国の政策や意思決定に寄与する情報を本国に送らなければならない重要な責任を担っていたことを意味する。
イラク戦争においては、戦争の大義が失われたという評価が定まる中で、我が国はどのように戦後処理、あるいはそれに続く一連の紛争にコミットしていくべきなのか。
米国の同盟国としてどのような選択をすることが、我が国の国益に繋がるのか。
深谷が正確な情報を得て本国に送ることが出来るかどうかに、それほどの重要な判断が依存していたと言ってもよいだろう。
この際に深谷が成し遂げた仕事は、非常に大きなものであった。
なお深谷は、実はそれ以前にも平成16年8月から、米太平洋艦隊司令部に連絡官として赴任している。
その上で、米中央軍での連絡官にも赴任しているので、イラク戦争後における米軍の意思決定を、まさにその場で目撃し、本国との調整を担ってきたわけだ。
おそらく、相当多くの国家機密にも接しながら、非常に大きな国家的決断もサポートしてきたのではないだろうか。
ジェントルマンな見た目のままに、紳士でクレバーな海上自衛官の模範像がそこにはある。
では、そんな要職を歴任してきた深谷とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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