滝澤博文(たきざわ・ひろふみ)|第29期・第6師団副師団長

滝澤博文(たきざわ・ひろふみ)は昭和38年1月生まれ、長野県出身の陸上自衛官。

防衛大学校第29期の卒業で幹候66期、出身職種は機甲科だ。

平成30年3月(2018年3月) 第6師団副師団長兼ねて神町駐屯地司令・陸将補

前職は陸上自衛隊高等工科学校長であった。

なお、陸上自衛隊高等工科学校長であった時の指導方針は以下の通りであった。

【統率方針】

「学校理念の実現」

【要望事項】

職 員

1.情熱と愛情

2.理論と実践

生徒

1.目標を立て日々努力せよ

2.真の友情を育め

(画像提供:陸上自衛隊第6師団公式Webサイト

(画像提供:陸上自衛隊第6師団公式Webサイト 広報やまなみ30年4月号)

突然だが、昭和53年4月、あるいは1978年4月といえば、何を意味する年だと思われるだろうか。

防衛大学校第45期の卒業生、年齢で言うと41歳くらいの幹部自衛官が生まれた年にあたるが、実はこれは、滝澤が自衛官になった年だ。

薄い記憶だが、昭和50年代前半と言えば確か、マクドナルドが時給400円くらいで学生を募集していた頃であろうか。

この年に、15歳にして3等陸士に任官した少年は、実に40年以上に渡り、自衛官として活躍し続けている。

今はなき、少年工科学校(現・高等工科学校)の生徒として制服の袖に腕を通してから、誰よりも長く自衛隊のメシを食っているそんな滝澤のご紹介である。

若干15歳にして親元を離れ、まだ幼さが残る少年のままで全寮制の学校に入り、厳しい自衛官の課業と学業に励む毎日はやはり相当過酷だ。

親や家族との面会・連絡も当然のように制限され、目を覚ましている間は常に自衛官としての任務を課されている青春時代である。

プライベートの時間などなく、僅かな自由時間も自習や自主トレに励む姿はまさに修行僧そのもの。

さらに周囲は、国防を志して入隊したと言えばカッコ良いが、時代的には  ヤンチャな  気合の入った連中も多いのが、少年工科学校である。

当然、態度が悪ければ上級生に  ぶん殴られ  丁寧な指導を頂けて、少しでも気に入らなければ立てなくなるまで根性を注入して頂ける、夢のような環境だ。

そんな事もあり、少年工科学校の卒業生は卒業後にあっても、当時の上級生が怖くてたまらないという思いを抱き続けている人も多いそうだ。

ちなみに、滝澤は昭和53年の入校なので第24期生ということになる。

その前後での少年工科学校卒業生で、今も現役の自衛官で将官にある幹部は、以下のような感じだろうか。

小和瀬一(第31期相当・少工第24期) 第14旅団長・陸将補

六車昌晃(第31期相当・少工第25期) 武器学校長・陸将補

梅田将(第33期相当・少工第25期) 警務隊長・陸将補

竹本竜司(第31期・少工第26期) 陸上幕僚副長・陸将

濱田博之(第32期相当・少工第26期) 統合幕僚監部報道官・陸将補

堀江祐一(第33期相当・少工第26期) 高等工科学校長・陸将補

なお少年工科学校では、このような環境ということもあり、同期同士は卒業後も鉄の友情で結ばれるそうだ。

そういった意味ではあるいは滝澤は、小和瀬とは無二の親友であり、梅田、竹本、濱田、堀江あたりの下級生については、手当たり次第にぶん殴っていたのかも知れない・・・。

ちなみに、竹本と堀江はとても仲良しである(と聞いている)。

※個人の感想です。

そしてその後、高等工科学校3年次を終えて防衛大学校に転じているので、恐らく当時の制度であれば、大検に合格して、防衛大学校に合格したと言うことになりそうだ。

そういった意味では、先に、「40年間に渡り自衛官であった」とお伝えしたが、正確には防衛大学校の学生の間、自衛隊員ではあるが自衛官の身分は離れている。

そして改めて、防衛大学校を卒業し幹部候補生第66期生として、幹部自衛官としての新たなスタートを切ったというのが正確な表現になるので、注意してほしい。

では、そんな経緯で陸上自衛隊の幹部となった滝澤はその後、どんなキャリアを歩んで将官にまで昇りつめたのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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コメント

  1. 通りすがり より:

    >手当たり次第にぶん殴っていたのかも知れない・・・。

    流石に手当たり次第ぶん殴る先輩は居ませんでしたが、視線がゴルゴ13並みの方は居ました。
    そういう人達の方が、その頃の事を反省してなのか部隊に行ったあと優しくて頂けます(笑)
    懐かしい思い出です。