【退役】岡田真典 (おかだ・まさのり)|第30期・海上自衛隊

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岡田真典は昭和38年4月生まれ、愛知県出身の海上自衛官。

防衛大学校第30期の卒業で幹候37期、出身職種は飛行で、SH-60回転翼機操縦士だ。

 

令和2年8月(2020年8月) 第22航空群・海将補として、長きにわたる自衛官生活に別れを告げた。

前職は開発隊群司令であった。

管理人にとって、非常に印象深い海の武人がまた一人、国防の現場を去った。

我が国が誇る海自の航空部隊を長年に渡り指揮し続けてきた、岡田真典(第30期)だ。

2佐以降のキャリアでみると、5年余り中央(海幕・統幕)での補職はあるものの、そのほとんどを航空部隊の現場で過ごしてきた。

文字通り、海自を代表する空の男としての自衛官人生を全うした自衛官人生であった。

 

その岡田の自衛官人生で思い出深いのは、やはり平成24年7月から務めた、航空集団司令部訓練主任幕僚のポストであろうか。

実は岡田は、その前職である第25航空隊司令時代に、航空機事故による殉職で、部下を失っている。

詳細は下記アーカイブからご覧頂きたいが、2012年4月に発生した、SH-60の墜落事故だ。

練習艦隊を見送っていた同機は、護衛艦まつゆきにローターを接触させ陸奥湾に墜落。

乗員7名のうち6名が救出されたが、機長であった宮永雅彦・2等海佐(特別昇任)がこの事故で殉職している。

 

そして、しめやかに執り行われた葬儀・告別式には1000名を超える関係者が出席するのだが、この際、宮永2佐の5歳になるご令息は最後まで、気丈に振る舞っていたそうだ。

そして出棺にあたり、ご令息は父の顔をしっかりと見つめ、棺に花を入れながら、

「僕、頑張るからね」

と語りかけたそうである。

そしてまた、大きくなったら2佐の跡を継ぎ、ヘリコプターパイロットになると、父の葬式で繰り返し語っていたと、関係者が記している。

 

そんな出来事の後に就いた、航空集団司令部の訓練主任幕僚である。

岡田がどれほどの思いで、海自の空の安全を護る任務を遂行してきたのかは想像に難くない。

それはおそらく、それ以降の第51航空隊司令や開発隊群司令のポストでも同様だっただろう。

もちろん、最後の補職となった第22航空群司令のポストでも。

 

殉職はもちろん、こうして振り返りながら記しているだけでも正直、目に涙が浮かぶ悲しい出来事だ。

特にお子さんが関係する殉職の話は、心が痛みやるせなくなる。

その思いは言うまでもなく、岡田こそもっとも心を痛めた出来事になっただろう。

そしてその思いは、決して形に残ることはないが、空の安全を強く願う海自の教訓や知見として確立し、引き継がれていくはずだ。

 

岡田の退役にあたり、やはりこの出来事を強く思い出した。

そして改めて、自衛官という誇り高い任務に従事する皆様を応援したいという思いを新たにしている。

 

あれから8年の歳月が経つが、すでに宮永2佐の忘れ形見は中学生になっているだろう。

ぜひ夢を叶えて父の跡を継ぎ、尾崎義典(第32期)・空将のように、殉職した偉大な父の背中を超え、我が国と世界の平和のために貢献して欲しいと願っている。

読者の皆様にもぜひ、宮永という名の自衛官が回転翼航空機の現場で活躍している情報をキャッチすることがあれば、

「もしかして・・・?」

と、気がついて欲しい。

そして、そんな空の安全を護る組織づくりに貢献した、岡田のことも。

 

岡田海将補様。

長きにわたる任務、本当にお疲れさまでした。

ありがとうございました。

その誇りある海上自衛官人生は、私たち日本国民の誇りでもあります。

どうぞまずは、ごゆっくりとお過ごしになって積年の疲れをお癒やし下さい。

 

そして、新たに始まる岡田海将補の第二の人生が、さらに充実したものとなりますことを、心からお祈り申し上げております。

(2020年9月9日 最終更新)

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以下は、在職時に更新していた記事のアーカイブです

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2018年3月現在、開発隊群司令を務める岡田だ。

海上自衛隊入隊以来、SH-60のパイロットとして回転翼航空機の現場で数多くの部隊を指揮。

その豊富なキャリアを活かし、平成26年8月からは第51航空隊司令に着任した経歴を持つ。

第51航空隊は、厚木に所在する実験と開発を目的とした航空隊であり、その任務の性質から回転翼機も固定翼機も運用し様々なテストを行い、海自航空部隊に貢献する。

そして平成28年7月からは開発隊群司令に着任し、主に海自艦艇・航空機に関する装備について、その試験を行い運用を改善・研究する責任者を務める。

いわば、現場を知り尽くした上で、それを上流で改善する大役を任された海将補である。

 

そんな岡田のキャリアだが、おそらく今も忘れがたいのは、2011年8月から着任した第25航空隊司令での現場ではないだろうか。

この時期、大湊の航空隊にとっては試練の日々が続く。

2012年2月には吹雪の中、滑走路上を低空飛行訓練中であったSH-60Jが横転し、搭乗員一名が負傷する事故を起こす。

そして2012年4月には、練習艦隊を見送っていた第25航空隊所属のSH-60が、護衛艦まつゆきにローターを接触させ陸奥湾に墜落。

乗員7名のうち6名が救出されたが、機長であった宮永雅彦・2等海佐(特別昇任)37歳が、大変痛ましいことに殉職される大事故となってしまった。

 

この事故を巡っては、最終的に機長であった宮永2佐の人為的ミスが主な原因という事故調査報告が為されたが、航空機事故は単一の原因で発生するようなものではなく、むしろたったひとつの単純なヒューマンエラーで事故が起こりえると言うのであれば、それはもはやまともな航空機ではない。

その意味において、なんともやりきれない事故原因の発表となったが、軍事組織である海上自衛隊として、一般に公開出来ること、出来ないことがあるのだろう。

あるいは別の事故原因があるのであろうと思われるが、いずれにせよ非常に辛い事故になってしまった。

また、宮永2佐の通夜・告別式にはそれぞれ1000名を越える参列者が集まり、2佐の生前のお人柄や人徳が偲ばれる、とても寂しいお別れの会となった。

 

なお、宮崎県選出で自民党所属の衆議院議員である武井俊輔氏は、亡くなった2佐とは同級生であり、武井議員の公式Webサイトにはお通夜から出棺まで、故人とそのご家族とともに2佐を見送った様子が詳細に描かれている。

それによると、2佐の5歳になるご令息は最後まで気丈に振る舞い、出棺にあたり2佐の顔をしっかりと見つめ棺に花を入れながら、

「僕、頑張るからね」

と語りかけたそうだ。

また、大きくなったら2佐の跡を継ぎ、ヘリコプターパイロットになると、父の葬式で繰り返し語っていたとも記されている。

 

小さな体に大きな志をもつ、この2佐の忘れ形見であるご令息は、きっと将来、誇り高い海上自衛官になってくれることだろう。

そしてきっと、大きな父の背中を越えた幹部自衛官として、活躍してくれるに違いない。

それは今から、何年後であろうか。

何年後であっても、宮永という凄腕の回転翼機操縦士を海上自衛隊で見つけたら、このエピソードをぜひ思い出して欲しい。

(通夜・葬儀の模様を記した武井議員の記事はこちら

 

なお、岡田の在任中に事故が連続してしまった第25航空隊だが、その為であろうか。

岡田の25航空隊の後職は航空集団司令部訓練主任幕僚。

事故の教訓を活かし、航空機事故の再発防止を任務に、空幕で職務にあたった。

殉職した2佐の魂が安らかに、後進を見守ってくれることを祈りたい。

 

 

ところで、2018年3月現在、岡田が指揮を執る開発隊群だが、海将補が就くポストでありながら、余り一般にその存在を知られていない。

画像は瀬戸内海を航行する試験艦あすかだが、直轄艦はこのあすかのみで、海上自衛隊の艦艇や航空機の文字通りの試験や実験、開発を担当する専門の部署だ。

51航空隊に続き、開発系のポストを歴任したことになるが、あるいは後職では同様に、開発を担当する海幕の要職に着任することになるかも知れない。

 

さて、その岡田について、30期同期の動向と併せて人事の動きも見てみたい。

岡田が海上自衛隊に入隊したのは昭和61年3月。

1等海佐に昇ったのは平成17年7月だったので、30期組同期1選抜から半年の遅れであった。

そして海将補に昇ったのが28年7月だったので、1等海佐に10年間在り、極めて豊富な現場指揮を積み上げた上での、将官昇任であった。

 

なお、30期組は2017年夏の将官人事で最初の海将が選抜された年次にあたる。

そして2017年冬の将官人事で昇任したものと併せ、30期組で海将にある最高幹部は以下の通りだ。

 

出口佳努(第30期相当)・統合幕僚学校長(2017年8月)

湯浅秀樹(第30期)・海上自衛隊幹部学校長(2017年12月)

※肩書は2018年3月現在。( )は海将昇任時期。

 

あるいは2018年3月の将官人事で、30期組から海将に昇るものが出るかも知れないが、この記事をポストしている3月13日現在では上記2名となっている。

 

海上自衛隊では、そもそも将官に昇る幹部の数が少ないので、1選抜で海将に昇ることが必ずしも海上幕僚長候補レースで決定的なアドバンテージを握ることを意味しない。

そういった意味では、2018年夏の将官人事までを見ないと、まだまだ30期組で抜け出すのは誰か、判断できなさそうだ。

 

とは言いながら、1選抜で海将に昇った出口が一般大学出身者というのは特筆するべき快挙だろう。

凄いことであり、ぜひこの笑顔の素敵な統幕校長には注目して欲しい。

 

岡田については、先述の通り研究開発系でさらに要職を歴任することになるのではないだろうか。

あるいは防衛装備庁に赴き、より大きな仕事を任される事があるかも知れない。

いずれにせよ、この先5年ほどは、岡田を始めとした30期組が我が国の平和と安全の中枢を担っていく世代となる。

その活躍には一層注目し、そして応援していきたい。

 

本記事は当初2017年7月19日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年3月13日に整理し、改めて公開した。

 

◆岡田真典(海上自衛隊) 主要経歴

昭和
61年3月 海上自衛隊入隊(第30期)

平成
9年1月 3等海佐
13年1月 2等海佐
13年8月 第101飛行隊長
15年2月 海上幕僚監部運用課
17年7月 1等海佐
18年8月 統合幕僚学校教官
19年8月 統合幕僚監部指揮通信システム部指揮通信システム企画課統合通信体制班長
21年8月 第21航空隊副長
22年2月 第21航空隊司令
23年8月 第25航空隊司令
24年7月 航空集団司令部訓練主任幕僚
26年8月 第51航空隊司令
28年7月 開発隊群司令 海将補
30年3月 第22航空群司令

令和
2年8月 第22航空群司令・海将補として退役

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省海上自衛隊 開発隊群公式Webサイト(顔写真)

http://www.mod.go.jp/msdf/frdc/about/frdc.html

※試験艦あすかの画像は、管理人が撮影したものを用いている。

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