國友昭(中部方面混成団長・1等陸佐)|第29期・陸上自衛隊

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とは言え、この状況は自衛官自身も「被災者」である。

さらに第22普通科連隊は約半数が地元宮城の出身であり、東北地方出身者という意味では、地元出身者90%以上で構成される「郷土部隊」で、その妻子や家族も駐屯地周辺に多く居住していた。


(画像提供:陸上自衛隊大津駐屯地公式Webサイト


(画像提供:陸上自衛隊大津駐屯地公式Webサイト かけはし第36号)

当然、安否もわからない。

今、家族に必要なのは自分の助けである。

どれだけの隊員がそう思ったであろうか、そして何人かの隊員は実際に、家族の安否確認に隊を離れることを希望したと言うが、これらの要求を國友は全て却下し、地域住民の救助を最優先する過酷な命令を下した。

 

そして結果的に、この駐屯地では1名の隊員が震災で命を落とし、家族が死亡した隊員も8名いた。

死亡した隊員は、休暇中であったにも関わらず震災発生を受け、帰隊するために多賀城に車を飛ばしている最中、仙台港近くで津波に巻き込まれて死亡していた。

また、この時に死亡した2曹はレンジャー訓練修了者であり、多賀城の精鋭中の精鋭隊員で、御遺体には津波の中でなんとか逃れようと、靴とズボンを脱ごうとした形跡があったそうだ。

休暇中であるにも関わらず、その強い責任感から駐屯地に駆けつける最中に死亡した彼は、もちろん殉職扱いとなり、特進が認められた。

 

このような過酷な状況の中で「生命のリミット」である72時間の間、國友は隷下隊員たちに全力で住民救助に当たることを厳命し、自らもその陣頭に立ち、また遺体を発見した際にご遺族に引き渡す最も辛い役割は1件たりとも部下に任せず、國友自らが行った。

そのようにして多賀城の第22普通科連隊が救出した命は実に4700人以上。

発見しご家族にお引き渡ししたご遺体は450名を数えた。

 

そして震災発生から72時間。

國友はここで初めて、隷下隊員に対し初めて一時帰宅を許可し、「家族」としての顔に戻ることを許した。

ほとんどの隊員は、この時点で家族の安否は確認できていない上に、災派の現場で見たのは瓦礫と化した多くの家屋と、家屋の屋根などに無残に遺されたご遺体などの光景である。

絶望的な気持ちの中でそれぞれの家に向かうも、ほとんどの隊員の家はやはり瓦礫と化しており、家族の姿は見当たらないケースがほとんどであった。

そんな中、避難所や親戚宅などに避難している家族と初めて対面し、子供達をその胸に抱くことができた多くの隊員たちは、人目もはばからずに大声を上げて号泣したという。

 

私たちは、強く、そして優しい自衛隊員の「表の顔」しか見ていないが、多賀城の隊員のように、自らとその家族も被災者でありながら、国家の危機に際して公務を優先し、家族を後回しにせざるを得なかった隊員たちがいることも決して忘れてはならない。

この第22普通科連隊の活躍と國友の指揮は今も自衛隊内で「伝説」になっていると言うが、後日、第38代東北方面総監に就任した山之上哲郎(第27期)が第22普通科連隊を初度視察した際(2016年当時)、訓示でまず口にしたのは震災時における隊員たちの勇気ある活躍と働きぶりへの賞賛であった。

 

今の日本において、これほど過酷な命令を下し、自衛隊としての本分を全うすることを要求した指揮官は、おそらく國友がその最たるものではないだろうか。

中には國友を恨み、あるいは今も恨んでいる隊員やそのご家族がいるかもしれない。

そのお気持ちはとても理解できる一方で、国家の危機に際して私心を捨て、公務に携わることを要求される自衛官とはこういう過酷な存在なのであること、その過酷な命令を下しきった國友もまた、本当の強さを持った指揮官であったと思う。

 

なお國友は、震災派遣中から直後においても、自らとその部隊の活躍を褒められることを好まなかった。

曰く、「国民の皆様の気持ちは嬉しいが、我々が感謝されるのは、国家存亡の時だけです。喜ぶようなことではありません」と。

これは昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式において吉田茂総理大臣が述べた訓示を意識した上での言葉だと思うが、國友に限らず、全ての自衛官の価値観に強く根付いている名演説ではないだろうか。

その名演説とは以下のものだ。

 

”君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。
御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。”

 

この言葉に、どれほどの自衛隊員たちが心励まされ、そしてこの言葉を心の支えに過酷な任務や訓練に耐えることができたであろうか。

人の上に立つリーダーの心を打つ言葉とは、正にこのようなものだと、時代を越えて語り継がれるべき演説だ。

そしてその価値観は國友の心にも突き刺さり、多くの国民の生命を救うために今日もその心身を鍛え続けている。

 

「我々の後には、もう何もない」

震災後にメディアの前で國友が語った言葉だ。

自衛隊は国家の危機に際して最後の砦になる、過酷な任務を背負う存在だが、このような指揮官と、その指揮官の命令をやりきった自衛隊員は本当に強い。

 

日露戦争以来の「東北の強兵」を示し、新たな伝説をつくった第22普通科連隊とその指揮を執った國友。

関係者とご家族全員のご尽力を含め、一国民として改めて、心から感謝したい。

本当にありがとうございました。

 

今回はいつもと違い、國友の経歴や同期である29期の動向には一切触れなかった。

しかし、國友の自衛官としての活躍を知るのに、これ以上のエピソードは無いだろう。

今回は、これで終わりにしたい。

 

そして國友は、平成最後の年である30年度で、長かった自衛官生活を終えて間もなく制服を置く。

震災の記憶がますます風化していく昨今だが、あの未曾有の災害の中で、指揮官たちは何を決断し、そして自衛官たちはどのように戦ったのか。

どうか、当時の自衛官の活躍に改めて思いを馳せて欲しい。

一般国民が誰も知らないところで、そっと引退していく國友をご紹介しながら、そんなことを改めて、お伝えしたかった。

暑苦しい記事であったなら、お詫びしたい。

 

※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。


(画像提供:陸上自衛隊大津駐屯地公式Webサイト かけはし第36号)

◆國友昭(陸上自衛隊) 主要経歴

昭和
60年3月 防衛大学校卒業(第29期)
年 月 第4普通科連隊(帯広)

平成
年 月 第7普通科連隊(福知山)
年 月 第3師団司令部第3部(千僧)
年 月 幹部学校付指揮幕僚課程(目黒)
年 月 普通科教導連隊第2中隊長(滝ヶ原)
年 月 陸上幕僚監部防衛部(檜町)
年 月 幹部学校教育部戦術教官(目黒)
年 月 中部方面総監部防衛部(伊丹)
年 月 幹部学校付幹部高級課程(目黒)
年 月 幹部学校教育部戦略教官(目黒)
年 月 第13旅団司令部第3部長(海田市)
21年8月 第22普通科連隊長(多賀城)
24年3月 第12旅団司令部幕僚長(相馬原)
25年12月 自衛隊京都地方協力本部長(京都)
28年7月 第14旅団副旅団長兼ねて善通寺駐屯地司令(善通寺)
29年8月 中部方面混成団長兼ねて大津駐屯地司令(大津)

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2件のコメント

地震の発生が1446だったと思うので、駐屯地着の時刻があっていませんね。

あ・・・あれ?
仰るとおりですね・・・。
おそらく公式発表を書き写したものだと思うのですが、何を間違えたのかわからないので時刻に関する記述を削除しました!
ありがとうございました!

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