岸川公彦(きしかわ・きみひこ)は昭和36年7月25日生まれ、兵庫県多可町出身の陸上自衛官。
防衛大学校第28期(土木工学)の卒業で幹候65期、出身職種は施設科だ
令和元年8月23日(2019年8月23日) 中部方面総監・陸将のポストを最後に、今日退役をする。
前職は防衛大学校幹事であった。
なお、最後の補職となった中部方面総監としての指導方針は以下の通りであった。
【統率方針】
任務の完遂
【要望事項】
「日々練成」「融和団結」「地域と共に」
(画像提供:陸上自衛隊中部方面隊公式Webサイト)
最後の最後まで、陸上幕僚長の有力候補の1人であり続けた岸川だ。
昭和59年3月から35年間の長きに渡り、その人生を国防に捧げ続けた男が今日、退役する。
正確には、既に離任式は終えているので今日は付日ということになるが、それでも今日を持って正式に、「娑婆」に戻ることが決まった。
余人には推し量ることができない、特別な思いで今日という日を迎えているのではないだろうか。
余談だが管理人(私)は、陸上自衛隊一のイケメンと言われた、山之上哲郎(第27期)・元東北方面総監の退官パーティに出席をさせて頂いたことがある。
その時に、元総監が「これからは、車の運転を再開しリハビリをして参ります」と仰っていたことが印象的であった。
確かに、総監にも昇ると移動には運転手が付き、所用の多くを副官が手配する。
しかしそもそも、総監にまで昇るような最高幹部であれば、人の100倍は行動力が漲り活力に溢れていそうなものだ。
運転も所用も自分でこなしたほうが早いと考えそうなものだが、しかしそれでは当然、大きな軍の運用をすることなどできない。
あるいは運転手が付くことも副官が付くことも、自分でやらずに人を動かすことを通じて、後進を無理やり育てさせようと言う意図もあるのだろうか。
明治の昔から、なぜ先人たちはこのような制度を作ったのか。
あるいはそんな意味もあるのかも知れないと、元総監の言葉の裏にはそんな思いもあったのかと、興味深くお話しを聞かせて頂いた。
しかし山之上元総監が仰ったように、勇退の日を迎えて以降はその全てが無くなるのだから大変だ。
あるいは岸川も、明日からゆっくりと「リハビリ」を進め、民間人になっていくのではないだろうか。
なお、詳細は以前の記事から見て頂きたいが、岸川は中部方面総監部の所在する兵庫県の出身だ。
過疎が進む、人口20000人余りの山あいに所在する多可町の出身である。
図らずも、最後の補職がその故郷に司令部を置き、東海、北陸、近畿、中国、四国までをもその管轄下に収める中部方面隊の指揮官であったことにも、特別な想いがあったのかも知れない。
そしてその在任中には、西日本豪雨被害への隷下部隊の出動を指揮し、常に現場にあって部隊を鼓舞し続けた。
ぜひ改めて、そんな岸川のキャリアにも、今日という日に想いを馳せてもらえれば幸いだ。
岸川陸将、本当に長い間お疲れさまでした、ありがとうございました。
今日という日をもって陸将は陸上自衛隊を去られますが、そのご活躍の足跡を、自衛隊を応援する多くの国民が記憶し続け、決して忘れることはないでしょう。
その誇りある自衛官人生に、心からの敬意と感謝を申し上げます。
そしてまた、その陸将のご活躍を支え続けたご家族の皆様も、私たち国民の誇りです。
長い間、本当にお疲れさまでした、ありがとうございました。
岸川陸将とそのご家族様の今後の人生も、自衛官生活と同等かそれ以上に充実したものとなりますことを、心よりお祈り申し上げております。
(2019年8月23日 最終更新)
◆以下、2019年6月までに更新した記事
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(画像提供:陸上自衛隊中部方面隊公式twitter)
2019年6月現在、中部方面総監を務める岸川だ。
大阪を中心とした京阪神・近畿のみならず、名古屋を中心とした中京経済圏、さらに静岡を除く東海全域、北陸に加え、四国までをもその担当地域に収める大部隊の指揮を執る。
その任務は、都市部に対するテロ攻撃への備えという意味でもとても大きいが、やはり我が国有数の人口密集地域に所在する部隊である。
それだけに、災害時の国民保護という意味でも、岸川と中部方面隊にかかる国民からの期待は極めて大きい。
実際に阪神大震災の際には、地元首長からの災派(災害派遣)出動要請を待たずに、「近傍派遣」を援用して独断で救命救急活動を始めた第36普通科連隊(伊丹)の孤軍奮闘など、その活躍と”伝説”は枚挙にいとまがない。
近い将来に想定される、南海・東南海地震においても、きっと中部方面隊は国民保護の中心となって活躍してくれるだろう。
いつの時代も、自衛隊と自衛官は決して目立つことはないが、いざという時には私たち国民のそばに居てくれた。
そして、何かあったら必ず駆けつけてくれた。
なお上記の2枚の写真も、2018年西日本豪雨に際し中部方面隊が災派で出動し、前線指揮を執っている岸川を撮影したものだ。
不幸にして、岸川の中部方面総監在任中は、数十年に一度クラスの大災害がこの地域に頻発してしまったがその全てで中部方面隊は極めて迅速に、人命救助から災害復興活動までを完璧にやり遂げてくれた。
もちろん、その全ての現場に岸川の姿があり、そして全軍を先頭に立って率いた。
そしてその岸川が、間もなくとなる2019年夏の将官人事で引退する。
岸川に限らず、28期組は陸上幕僚長に着任した湯浅悟郎(第28期)を除き、全員が退任するだろう。
そのため、28期組の退役まで残り1ヶ月余りとなったこの時期に、28期組の将官を改めてご紹介したいと予告していたのは、ご案内している通りだ。
今日の記事は、その3人めとなる岸川である。
そんな退役間際の岸川の最後のご紹介だが、最初に少し、その岸川の田舎についてお話しをしてみたい。
実は岸川の出身は、まさにこの中部方面隊司令部のお膝元である兵庫県だ。
山間に所在する、今となっては人口僅か20000人余の内陸部の山村、兵庫県多可町の出身である。
早くから過疎化が進み、1990年(平成2年)には同町を走る唯一の鉄道路線であった鍛冶屋線も廃線となり、陸の孤島となった小さな町だ。
その多可町から岸川が防衛大学校に進んだのが、まだまだ全国に田園風景が広がっていた時代である1980年(昭和55年)3月。
初めて親元を離れた、右も左もわからなかった初々しかった18歳の少年は、それから37年の時を経た2017年8月、同地域をも管轄下に治める中部方面隊の方面総監に着任した。
いわば、「故郷に錦を飾る」大出世を果たしたというところだろうか。
これ以上はない形での地元での任務であり、また自衛官人生最後の任務となった形だ。
そして余談だが、岸川の好きな曲はKelly Clarksonの「Breakaway」である。
Grew up in a small town
And when the rain would fall down
I’d just stare out my window
(小さな街で育った そして雨が降ると、ただ窓の外を見つめていた)
こんな歌詞で始まる曲だが、その描写はきっと岸川の原風景であり、故郷を思い出す心の歌であったのだろうか。
そして寒村の窓から、降りやまない雨を静かに見つめていた少年はより広い世界を求めて町を飛び出し、国防の世界に身を投じた。
そしてその人生の全てを、我が国と世界の平和のために献身的に捧げてきた最後の任務として、自身の故郷をも含む中部方面隊のトップに就いた。
退役間近の今、この「Breakaway」を聞きながら、特に思うところがあるのではないだろうか。
まさに「人に歴史あり」だが、岸川と「中部方面総監」というポストには、そんな偶然の繋がりがあった。
では、そんなエリート街道を駆け上がってきた岸川とは、これまでどのような自衛官人生を過ごしてきたのだろうか。
少し詳細に、そのキャリアを見ていきたい。
その岸川が陸上自衛隊に入隊したのは昭和59年3月。
1等陸佐に昇ったのが平成15年1月、陸将補が21年7月、陸将が27年8月であり、その全てで、28期組1選抜(1番乗り)となるスピード出世を果たしてきた。
(画像提供:陸上自衛隊中部方面隊公式Webサイト)
(画像提供:陸上自衛隊中部方面隊公式twitter)
職種部隊では、中隊長ポストを北海道帯広に所在していた第5施設大隊で、連隊長相当職を豊川に所在する第6施設群長で、陸将補に昇任後は古河の第1施設団で団長ポストにも上番している。
またその間、中央(陸上幕僚監部)では、班長ポストを装備部後方計画班長と監理部総務課広報室長で務めたほか、各地のスタッフや幕僚のポストでは西部方面総監部の幕僚副長も務めた。
その他、米陸軍戦略大学への留学を経験し、研究本部総合研究本部長の要職も任され、第14旅団長(善通寺)、第8師団長(北熊本)と、常に28期組1選抜の最高幹部として国防の中心を歩む要職を歴任。
そして平成28年7月、陸上幕僚長候補者の指定席の一つである防衛大学校幹事に着任すると、その後職として29年8月に中部方面総監を任され、今に至る。
文字通り、28期のみならず我が国を代表する最高幹部の一人であったと、言ってよいだろう。
では最後に、その岸川と同期であり、間もなく退役を迎えるであろう28期組の陸将の顔ぶれを改めて確認しておきたい。
我が国と世界の平和に貢献し続けてきた陸将であり、湯浅を除く4名は、2019年夏の将官人事で退役することが確実な最高幹部だ。
湯浅悟郎(第28期)・陸上幕僚長(2019年4月)
住田和明(第28期)・陸上総隊司令官(2018年8月)
田浦正人(第28期)・北部方面総監 (2017年8月)
岸川公彦(第28期)・中部方面総監 (2017年8月)
岩谷要(第28期)・教育訓練研究本部長(2017年8月)
※肩書はいずれも、2019年6月現在。
※( )は現職着任時期。
湯浅を除く4名は、全員が陸上幕僚長に着任してもおかしくはなかった、凄い幹部たちであった。
誰一人として、湯浅に劣っていたわけでもなく、また優れていたわけでもなく、ただ時の巡り合わせと、わずかばかりの運でトップに昇ること無く退役するだけである。
ぜひ、これら最高幹部の活躍を最後まで応援し、注目して欲しいと願っている。
ところで、前ページでご紹介した岸川のお気に入り曲、Kelly Clarksonの「Breakaway」は、このような歌詞で終わる。
I gotta take a risk, take a chance, make a change And breakaway
(私はリスクを取り、チャンスを掴み、変化を起こし、そして自分を変えてみせる)
これこそが岸川の価値観であり、生き方であったのではないだろうか。
陸上自衛隊の最高幹部にまで昇り詰めた岸川の人生とは、常にこのような挑戦の連続であったのだろう。
そしてリスクにも挑み続け、結果を残してきた男が、中部方面総監という要職を最後に国家から最高の名誉を与えられて、間もなく自衛隊を去る。
あと1ヶ月余りとなった岸川の自衛官人生に最大のエールをもって、その最後の活躍を応援して貰いたいと願っている。
※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。
(画像提供:陸上自衛隊中部方面隊公式Webサイト)
◆岸川公彦(陸上自衛隊) 主要経歴
昭和
59年3月 陸上自衛隊入隊(第28期)
平成
年 月 第5施設大隊中隊長
年 月 外務省出向
年 月 陸上幕僚監部調査部
7年1月 3等陸佐
10年7月 2等陸佐
15年1月 陸上幕僚監部教育訓練部 1等陸佐
15年3月 中央資料隊付(米陸軍戦略大学)
16年8月 陸上幕僚監部装備部後方計画班長
18年8月 第6施設群長(豊川)
19年7月 陸上幕僚監部広報室長(市ヶ谷)
21年7月 西部方面総監部幕僚副長(健軍) 陸将補
22年6月 第1施設団長(古河)
23年8月 陸上自衛隊研究本部総合研究本部長(朝霞)
25年8月 第14旅団長(善通寺)
27年8月 第8師団長(北熊本) 陸将
28年7月 防衛大学校幹事(小原台)
29年8月 中部方面総監(伊丹)
令和
元年8月23日 中部方面総監のポストを最後に勇退
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