池田孝一(いけだ・こういち)は昭和46年7月29日生まれの陸上自衛官。
防衛大学校第38期の卒業(機シ)で幹候75期、出身職種は航空科だ。
令和元年8月(2019年8月) 北部方面総監部幕僚副長・陸将補
前職は情報本部分析部副部長であった。
(画像提供:小島肇・元2等陸佐)
2020年6月現在、北部方面総監部で幕僚副長を務める池田だ。
北部方面隊は我が国で最大の勢力・火力を誇る実力部隊であり、いろいろな意味で特別な意味を持つ組織である。
この組織で部隊運用を担当する幕僚に着任することも、やはり幹部自衛官にとって非常に特別な補職であることを意味している。
ところで今回、陸将補に昇任して最初のポストである池田について。
ある日、私(管理人)の師匠である小島肇(第19期)・元2等陸佐から連絡があり、
「桃野くん、君、確かパイロットになるのが子供の頃の夢だったんだよね?」
「はい、そのとおりです。」
「実は今度、北部方面総監部に挨拶に行くんだけど。新任の池田幕僚副長、航空科出身なんだよ。」
「本当ですか?もしかして、少しお話を聞かせてもらうことはできますか?」
「どうかな。挨拶だけの表敬訪問だけど、プレスリリース用の経歴くらいはもらえるかもね。頑張ってみるよ!」
とお声がけを頂き、この記事になっているという次第である。
しかも、思いがけずこれまでのお仕事ぶりについてもいろいろお聞かせ頂けたようで、いつもより充実した記事にできそうだ。
小島様、いつもありがとうございます!
話を戻して、池田のことについてだ。
航空科出身であり、ヘリパイロットとして様々な活躍をしてきた池田だが、そのキャリアの中でもっとも印象的ものを一つ挙げるとすれば、やはり平成16年1月から務めた第1次イラク復興業務支援隊の任務だろうか。
ご存知のようにこの仕事は、率直に申し上げて戦後始めて、自衛官が”戦地”に赴いたと言ってもよい任務であった。
もちろん政治的に様々な立て付けを整え、戦地ではなくあくまでも戦後復興支援という任務で赴いている。
しかし自衛隊が現地に赴く直前、民間の邦人犠牲者が発生するなど、当時の緊迫感は関係者であれば知らないものはいない。
実際、第二次復興業務支援隊長を務めた元北部方面総監の田浦正人(第28期)などは現地に赴く前、令夫人のご両親に、
「自衛官に嫁がせたばかりに、ご心配をお掛けして申し訳ありません。しかし、私には仕事があります。行かせてください」
と手紙を出し、まだ幼かった2人の息子には、
「これが父の仕事だ、お父さんに何かあったらお母さんをしっかり頼む」
と、”最後の言葉”を遺し、現地に赴いている。
当時、多くの自衛官が最悪の事態を覚悟し現地に赴き、国益のために文字通り命を懸けて、イラクの戦後復興に血と汗を流した。
この時のことは、やはり池田も印象深かったのか、小島元2佐に以下のようなお話をしてくれたそうだ。
「小島さん。私は、戦闘の最小単位は家族だと思っています。」
「どういうことですか?」
「家族の支えがあるからこそ任務に邁進することが出来ます。」
「その通りだと思います。」
「たとえ危険な任務であっても、その家族を残して行かなければならない時があります。だから部下に対しては『普段から家族を大事にしろ。感謝の気持ちを言葉で伝えよ。』と指導してきました。」
「副長はできてこられましたか?」
「それが・・・正直、イラクに行くことになって初めて妻や家族に『ありがとう』と言えていなかった事に気がついたんです。非常に厳しい任務でしたが、私に『家族の大切さ』を学ばせてくれました。ですから今は、妻には言葉に出して感謝を伝えるようにしています(笑)。」
「それほど、印象深い任務だったのですね。」
「はい。我々は隊員一人ひとりの力を融合して組織力で任務を遂行します。家族が支えてくれるからこそ一人ひとりの力が発揮でき、それが任務完遂に繋がるのです。」
ざっと、こんなお話を聞かせてくれたそうだ。
多くの災害派遣や任務における献身的な活動を通し、自衛隊と自衛官は多くの国民の心をつかんだ。
今や多くの国民の心は、自衛隊・自衛官とともにある。
戦後長らく、極めて理不尽で不遇な対応を受けてきた自衛隊と自衛官の忍耐の時期を知っている者としては、本当に嬉しい限りだ。
しかしながら、私達一般国民は「自衛官の家族」にまで、はたして思いを馳せることができているだろうか。
東日本大震災の際に、自衛官は確かに身の危険を顧みず、献身的で驚異的な活躍を見せてくれた。
しかしながら、一番心細い時に「任務」のために家を留守にせざるを得なかった隊員の家族の皆様の心情にまで、寄り添うことができただろうか?
敢えて誤解を恐れずに申し上げると、自衛官の活躍を支える家族こそ、我が国の国防と安全保障の根幹そのものだ。
家族の理解と応援無しに、自衛官の活躍はありえない。
東日本大震災の時、震災の被害が甚大であった宮城にあって、地元部隊である第22普通科連隊の活躍は眼を見張るものがあった。
しかしながら、状況が落ち着いて初めて家族の安否確認を許された隊員の様子を知る人は、ほとんどいないだろう。
発災から何日も経ってからやっと避難所などで家族と対面し、子供達の無事を確認しその胸に抱くことができた隊員たちの多くは、人目もはばからず大声を上げて号泣したそうだ。
有事の際、そんな辛い思いを自衛官や自衛官の家族にさせてはならない。
それが自衛官とその家族の避けられない宿命であるなら、私達一般国民は自衛官の家族の心にも寄り添わなければならない。
ぜひ、なんらかの有事の際には、そんなこともほんの少しだけ、読者の皆さんには意識して欲しいと願っている。
池田がそうであったように、任務に真摯に向き合ってきた幹部曹士の皆さんは、国民と同じように家族も心から大事に思っている。
では、そんな池田とはこれまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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