【退役】中西正人(大湊地方総監・海将)|第27期・海上自衛隊

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26期組という可能性も無いわけではないが、陸・空とのバランスの兼ね合いで若返りが遅れることは好ましくない上に、27期組には昇任速度、ポストの序列から考えて最有力である将官が居ることに依る。

ではその海上自衛隊の27期組である海将にはどんな幹部が居るのだろうか、少し見てみたい。

 

山下万喜(第27期)・・・自衛艦隊司令官

池太郎(第27期)・・・呉地方総監

中西正人(第27期)・・・大湊地方総監

大塚海夫(第27期)・・・海上自衛隊幹部学校長

(肩書はいずれも2017年10月現在)

 

また、海上幕僚長に着任するものが最後に通過するポストといえるのは、2017年10月現在以下のようなところだ。

・自衛艦隊司令官

・海上幕僚副長

・横須賀地方総監

・佐世保地方総監

これ以外に、航空集団司令官と大湊地方総監から着任した例もそれぞれ1例のみあるが、2017年現在の情勢では考えづらく一般化はできないだろう。

また、横須賀地方総監と佐世保地方総監には26期組が着任しており、海上幕僚副長には28期組が着任しているのが2017年10月の状況だ。

また近年、第33代海上幕僚長人事でサプライズがあった例を除き、海上幕僚長には自衛艦隊司令官がその後職として着任する可能性がもっとも高いポストだ。

 

このようなことを考えると、第34代海上幕僚長に着任するのは、おそらく山下であろうというのが大方の見方となっている。

 


(画像提供:海上自衛隊横須賀地方隊公式Webサイト

とはいえ、過去に大湊地方総監から海上幕僚長に昇格した事例も0ではない以上、中西にもその可能性が全く無いと言い切ることはできない。

つまり中西は、それほどまでに27期のスーパーエリートとして存在感を発揮してきた高級幹部というわけだが、そのキャリアはどのようなものになっているのだろうか。

 

中西が防衛大学校を卒業し海上自衛隊入隊したのは昭和58年3月。

1等海佐に昇ったのは平成14年1月なので、27期組1選抜(1番乗り)でのスピード出世だ。

そこから海将補に昇ったのが21年12月なので、ここでは同期1番乗りというわけではなかったが、それでも順調なキャリアパスである。

そして海将に昇ったのが28年3月。

海将補・海将ともに同期最速の山下万喜に比べ、それぞれ1年4ヶ月、1年6ヶ月遅れということになる。

 

そのキャリアは極めて充実しており、防衛大学校卒業以来、ゆうしお型潜水艦の4番艦であるおきしお、9番艦であるゆきしおなど、今となっては懐かしくも響く一時代の国防を支えた潜水艦の時代から日本の海に潜り、我が国の国防を最前線で支えた。

 

また、平成10年に初めて副長(航海長)を務めたのはあきしおであり、艦長を務めたのは平成11年に指揮を執ったなつしお。

涙滴型潜水艦の第3世代であり最終形であったこれらの艦は日本の潜水艦造船技術の一つの完成形であり、今に続く潜水艦建造技術の基礎となったもので、副長・艦長をこれら当時の主力潜水艦の一つで経験したのは中西の大きな財産となっているはずだ。

 

なお余談だが、海上自衛隊呉史料館で野外展示されているあの巨大な潜水艦はあきしおだ。

まだ37歳で2等海佐であった若かりし頃、副長として初めて指揮を執った潜水艦が野外展示され「第2の人生」を送っているわけだが、実は中西は、平成24年から1年間、呉地方総監部の幕僚長を務めている。

きっとこの時代に、現地に足を運んでいるであろうことは疑いの余地がない。

あきしおは今でも、潜望鏡が実稼働するが、きっと若かりし頃を思い出し潜望鏡を覗き、かつて見た大海原を、その潜望鏡の先に見たのではないだろうか。


(画像提供:海上自衛隊大湊地方隊公式Webサイト

このように、中西の出身職域は潜水艦乗組員である。

海上自衛隊の中でも特にエリートが集まり、また技量・精神力・人間力が高いレベルでまとまっていなければ務まらないとされる厳しい職域だ。

そのため、外交能力や社交性に関する評価も高く、最高幹部に昇ってからは軍人外交の舞台にもたびたび登場する。

 

2013年の呉地方総監部幕僚長であった時代には、フランス海軍のフリゲート艦バンデミエールが呉に入港した際のエスコート役を務め、また2015年の横須賀地方総監部幕僚長だった時代には、東京・晴海埠頭に入港したトルコ海軍のフリゲート「ゲディズ」のエスコート役も務めた。

 

特にトルコ海軍のエスコート役を務めた時は、あのエルトゥールル号追悼記念行事の式典までエスコートしており、非常に意義深いものであった。

この際は、トルコ側も提督(少将)が指揮を執り来日するなど非常に盛大な式典が行われたのだが、軍人外交として極めて重要な意味を持つものであった。

 

なおエルトゥールル号遭難事件について少し触れておくと、この事件は1890年、トルコの軍艦が和歌山県沖で嵐に遭遇し座礁・転覆して、530名余りの尊い人名が失われた非常に痛ましい海難事故である。

この海難事故が発生した際、異常を察知した和歌山県串本町大島の住民たちは、命の危険も顧みず遭難者たちの救出に走り、結果として69名の命を救った出来事であり、以来日本とトルコの絆が極めて強固となるきっかけになった事件だ。

 

当時の記念碑がある現地に足を運べよくわかるが、紀伊大島は今でこそ陸橋で本州とつながっているものの、当時は孤島であり、島と本州の間の海は荒れ、嵐になると完全に孤立する場所にある。

そのような状況の中で、暗い海に飛び込み要救助者を救い出し、非常用にストックしていた米、命をつなぐ糧であった家畜を潰し、救出したトルコの人たちに温かい食事を提供した紀伊大島の村人たちの勇気は日本人の誇りそのものだ。

そしてこの出来事は、どのような外交辞令よりも強力なメッセージとなって、トルコの人たちの心に刻み込まれることになった。

 

時代は流れ1985年のイラン・イラク戦争の時代。

当時のイラク大統領サダム・フセインは3月17日、イラン上空を飛行する飛行機を48時間経過後から無差別に撃墜することを発表する。

つまり、48時間以内にイランを脱出しなければイラン・イラク戦争の真っ只中に取り残され、在留邦人の全てが命の危機に晒されることになる危機的状況だ。

 

在留邦人は200名余りであり、陸路はすでに戦闘が激化して脱出は不可能。

空路でも、邦人救出に自衛隊機を飛ばす法整備が整っておらず、日本航空は「戦地で危険」であることを理由に飛行機の派遣を拒否した。

 

このような中で邦人救出に動き、危険なイランに航空機を派遣し200名余りの日本人を全てイランから救出してくれたのはトルコであった。

この時、イランに飛行機の派遣を決めた駐日トルコ大使は、お礼に訪れた外務省担当者に、

「エルトゥールル号のお礼をしたまでです」

と答えたエピソードが残っている。

 

このような歴史の上にある、トルコ海軍と海上自衛隊の友好行事。

中西がエスコート役として務めた任務の中でも、きっと感慨深いものになったに違いない。

 

このようなキャリアを経て、大湊地方総監の重職にある中西である。

総監に着任後は、地元経済界と協力して大湊カレーの普及に乗り出すなど、また新しいアプローチで海上自衛隊と地元の融和を図り、中西カラーを出し親交を図っているのなど、独自の存在感を見せてくれている。

 

27期組と言えば、どのような人事であろうとも、自衛官人生は後数年であろう。

どんなエリートにも必ず退役の時が来ることを考えれば寂しい気もするが、ぜひ中西には、さらにもうひと踏ん張り力を尽くし、我が国の平和と安全に大いに貢献してくれることを期待したい。

 

※本記事は当初2017年7月5日に公開していたが、加筆修正が重なったので2017年10月24日に整理し、改めて公開した。

※文中、自衛官および関係者各位の敬称略。

◆中西正人(海上自衛隊) 主要経歴

昭和
58年3月 海上自衛隊入隊(第27期)
59年11月 「ゆうぐも」(大湊)
62年7月 「おきしお」(横須賀)

平成
元年3月 「ゆきしお」水雷長(横須賀)
5年3月 「はやしお」船務長(呉)
6年1月 3等海佐
6年3月 「はやしお」機関長(呉)
8年3月 海幕総務課兼副官(東京)
9年7月 2等海佐
10年3月 「あきしお」副長兼航海長(呉)
11年8月 「なつしお」艦長(呉)
13年6月 海幕補任課(東京)
14年1月 1等海佐
16年7月 海幕補任課補任班長(東京)
17年8月 第6潜水隊司令(横須賀)
18年4月 第4潜水隊司令(横須賀)
18年12月 統幕運用2課訓練調整官(東京)
20年3月 海幕総務部総務課長(東京)
21年12月 海幕総務部副部長(東京) 海将補
23年4月 統合幕僚学校副校長(東京)
24年7月 呉地方総監部幕僚長(呉)
25年8月 海幕人事教育部長(東京)
26年8月 横須賀地方総監部幕僚長(横須賀)
28年3月 大湊地方総監(大湊) 海将
30年8月 大湊地方総監のポストを最後に退役

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