【退役】益田徹也(ますだ・てつや)|第27期・海上自衛隊

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益田徹也は昭和35年6月24日生まれ、徳島県出身の海上自衛官。

防衛大学校第27期(電気工学)の卒業で幹候34期、出身職種は飛行で回転翼機の操縦士だ。

 

平成29年12月(2017年12月) 第31代第21航空群司令・海将補のポストを最後に、長年親しんだ海上自衛隊の制服を置いた。

前職は海上幕僚監部 指揮通信情報部長であった。

 

 

【以下、2018年1月2日に追記】

27期のベテラン自衛官がまた一人、自衛隊を去った。

27期と言えば、陸上幕僚長の山崎幸二(第27期)丸茂吉成(第27期)と、すでに陸空で幕僚長を務めている世代だ。

2018年12月にも予想される海上幕僚長人事でも、恐らく27期組から新幕僚長が選任されることになるだろう。

 

陸海空自衛隊では、幕僚長以外の27期は既に数えるほどになっている。

そもそも、ストレートの入隊でも2017年で57歳を迎える年齢であり、1佐でも定年退職を既に迎えている年次だ。

残り少なかった27期の将官の一人であった益田であったが、長く厳しかった自衛官生活も引退して良い頃合いだった、ということだろう。

 

在ロシア防衛駐在官を務め、ヘリコプターパイロットでありながら、情報系の将校としても存在感を発揮した自衛官人生であった。

久しぶりの、何も任務がないお正月を、のんびりしながらも物足りない思いで過ごしているのではないだろうか。

 

今はまず、のんびりと過ごされて積年のお疲れをどうぞお癒やし下さい。

長年の自衛官生活、本当にお疲れ様でした。

ありがとうございました。

益田海将補の第二の人生が素晴らしいものになりますことを、心からお祈り申し上げます。

 

 

【以下、2017年11月に記述】

2017年11月現在、千葉県館山に所在し、対艦・対潜ヘリを運用する第21航空群の司令を務める益田だ。

子供の頃からパイロットになりたいという夢を持ち、学費がかからずパイロットになれるという動機で徳島市立高校から防衛大学校に進学。

猛勉強と猛訓練の末に夢を叶え、第51航空隊(厚木)や大村航空隊(長崎)でヘリコプターパイロットとして任務に就き腕を磨き、キャリアを積んだ。

 

その益田が海上自衛隊に入隊したのは昭和58年3月。

1等海佐に昇ったのが平成14年1月なので、27期組1選抜(1番乗り)のスピード出世だ。

海将補に昇ったのは平成26年10月なので、1等海佐を12年間務めたことになり、その分、上辺の知識に上滑りしない堅実な指揮をする将補として、極めて頼りになる最高幹部として力を蓄えた。

 

一方で27期組と言えば、陸上自衛隊では既に岡部俊哉(第27期)が陸上幕僚長に昇っている世代だ。

海上自衛隊においても、おそらく2017年11月現在で海上幕僚長を務める村川豊(第25期)の任期が2018年12月までと予想され、その後任には、27期組を始めとした益田の同期もしくは後輩が着任する可能性が高い。

あるいは益田にとっては、第21航空群司令の職か、もしくは2017年12月に異動があれば、その補職を最後に、長年親しんだ海上自衛隊の制服を置くことになる可能性が高いだろう。

 

なお、益田の同期であり、次期海上幕僚長に着任する可能性がある海将には、2017年11月現在で以下の者たちがいる。

 

山下万喜(第27期)・自衛艦隊司令官(2014年8月)

池太郎(第27期)・呉地方総監(2014年12月)

中西正人(第27期)・大湊地方総監(2016年3月)

大塚海夫(第27期)・海上自衛隊幹部学校長(2015年8月)

※肩書はいずれも、2017年11月現在。( )内は海将昇任時期

 

これまでのところ、次期海上幕僚長を確実視されているのは山下だ。

そのキャリアから考えてほぼ間違いないと思われるが、おそらくその着任時期は2018年12月。

そうなれば27期組の将官も早期退職勧奨を受け退役となることが予想される。

 

 

あるいは残り少ないかもしれない益田の任期だが、これまでに昇り詰めてきた、エリート自衛官らしいキャリアについても見ていきたい。

 

そのキャリアは常に、海自航空隊の現場で指揮を執り、また中央で要職を重ねるなど、非常に充実した経歴を重ねてきた。

しかし中でも、特筆するべきはやはりロシア防衛駐在官のポストであろうか。

防衛駐在官は外務省に出向する形を取り、現地の日本大使館に勤務し、武官同士だからこそ可能なコミュニケーションを通じて様々な安全保障に関する情報を収集する、軍人外交の担い手である。

 

中でもロシアと言えば、我が国の安全保障に直結する役割を担うのがその防衛駐在官ポストだ。

近代史を紐解けば、明治35年(1902年)からロシア駐在武官を経験し、日露戦争勃発とともにスェーデンに根拠を移した明石元二郎がその代表的な人物であろうか。

日露戦争中、ロシアに対する破壊活動と諜報活動で大きな成果を挙げた日本陸軍の軍人だ。

 

明石の戦時中の働きは日本の勝利に大きく貢献し、当時の陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は「明石のあげた成果は、陸軍10個師団(20万人)に相当する」とまで称えたという逸話も残っているほど、駐在武官として大活躍をした男である。

但し、日露戦争最大の陸戦にして最後の会戦となった奉天会戦での戦闘規模は、日本陸軍24万人に対してロシア陸軍36万人。

いくらなんでも評価を盛り過ぎだろうという気がしないでもないが、明石の成し遂げた破壊活動はそれだけ凄かったということなのだろう。

 

ちなみに、益田がロシアに赴任したのは2001年から2004年までであり、明石が日露戦争前夜に諜報活動を行っていた頃から、ちょうど100年後ということになる。

偉大な先輩から100年目の節目にあたり、益田も感慨深い思いであったのではないだろうか。

 

ロシアから戻った益田が赴任したのは、今度は情報本部であり、また急に毛色の違うポストを歴任する。

平成21年には海上幕僚監部情報課(情報課長)、平成24年に海幕情報本部統合情報部長、平成26年に指揮通信情報部長に就任するなど、およそ回転翼操縦士が本業とは思えない、情報畑キャリアを歩んだ。

 

なおこの時、海幕で担当したのは主にサイバー空間における防衛戦やサイバー戦を想定した研究であり、短い期間に論文も発表するなど、自衛隊にとって立ち遅れている分野で手腕を発揮した。

その幅広い分野での才能と器用さこそが益田の強さであり、将官にまで昇ったエリートの所以であろう。

 

これだけの活躍を見せた将官にも退役の時が近づいているかと思うと寂しい限りだが、きっと最後まで全力を尽くし、その任務を全うしてくれることだろう。

益田の活躍には最後まで注目し、そして応援したい。

 

本記事は当初2017年7月19日に公開していたが、加筆修正が重なったので2017年11月29日に整理し、改めて公開した。

なお、ここから下の部分は2017年7月に公開した当時のものをそのまま残している。

 

◆益田徹也(海上自衛隊) 主要経歴

昭和
58年3月 海上自衛隊入隊(第27期)
62年12月 第121航空隊(館山)

平成
3年8月 厚木航空プログラム分遣隊(厚木)
6年1月 3等海佐
6年3月 第51航空隊(厚木)
9年7月 2等海佐
10年3月 大村航空隊(大村)
10年8月 大村航空隊飛行隊長(大村)
13年6月 ロシア防衛駐在官
14年1月 1等海佐
16年8月 情報本部分析部分析第4課長
17年12月 第122航空隊司令(大村)
18年12月 第1航空群司令部首席幕僚(鹿屋)
21年1月 海上幕僚監部情報課
21年3月 海上幕僚監部情報課長
22年7月 海上幕僚監部防衛課兼統合幕僚監部運用2課兼自艦隊司令部
23年1月 徳島教育航空群司令(徳島)
24年4月 情報本部統合情報部長
26年10月 海上幕僚監部指揮通信情報部長 海将補
28年12月 第21航空群司令
29年12月 第21航空群司令のポストを最後に勇退

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省海上自衛隊 第21航空群公式Webサイト(顔写真及び行事写真)

http://www.mod.go.jp/msdf/tateyama/newhp/shikikanaisatsu/shikikanaisatsu.html

http://www.mod.go.jp/msdf/tateyama/newhp/topic/topic.html

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