【退役】小川能道(航空救難団司令・空将補)|第29期・航空自衛隊

小川能道(おがわ・よしみち)は昭和37年4月生まれ、栃木県出身の航空自衛官。

防衛大学校第29期の卒業で幹候75期、職種は公式情報がないので判別しないが、そのキャリアから考え、恐らく飛行(パイロット)であると思われる。

平成30年4月1日(2019年4月1日) 航空救難団司令・空将補のポストを最後に退役することが決まった。

前職は航空幕僚監部監理監察官であった。

(画像提供:航空自衛隊航空救難団公式Webサイト

(画像提供:航空自衛隊航空救難団公式Webサイト

2019年3月、航空救難団司令を務める小川の退役が決まった。

航空救難団は、言うまでもなく自衛隊パイロットの命を救うために特別な訓練を受けた、救命救難のエキスパート集団だ。

そのため、あらゆる災害、あらゆる困難な気象条件下における救命救急の最後の砦として、民間にもその救助の手を差し伸べ、厳しい任務を数多く請け負ってきた。

そのような誇りあるポストが小川の最後の補職となってしまったが、おそらくこれ以上はない退役の、最後の花道になったのではないだろうか。

なお個人的には、もし自分が自衛官であれば、やはり春の退官が一番うれしいだろうと妄想している。

冬は、お正月を控えて年末年始、何かと入り用の時に退役になるのはどこか不安だ・・・

しかもものすごく寒い。

身も心も寒くなりそうだ。

8月の人事異動での退役も悪くはないが、クソ暑い時期に礼服を着て最後のお別れなど、本当に暑そうだ。

一方で、4月のお別れは満開の桜の下での、退役である。

残念ながら東北北海道に桜前線が届く前ではあるが、それ以外の地域では、これ以上はない退役の舞台になるのではないだろうか。

小川の退役の日も、航空救難団の司令部が所在する埼玉県の入間では、きっと満開の桜が小川の最後の日を彩ってくれるはずだ。

これ以上はない退役の日として、思い出に残るのではないだろうか。

長い間、本当にお疲れ様でした、ありがとうございました。

これまでの、小川空将補の誇りある自衛官人生に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

小川空将補の第二の人生も、充実した素晴らしいものとなりますことを、心からお祈り申し上げております。

【以下、2019年3月20日に、これまでの記事を修正し改めて公開】

2017年11月現在、我が国の海上・航空救難の最後の砦である航空救難団で司令を務める小川だ。

埼玉県の入間にその司令部を置き、That others may live(他を生かすために)の合言葉そのままに、時に命知らずの極めて危険な環境において、要救助者の命を救う。

それもそのはずであり、航空救難団が対応するのは、既に警察や消防でも、もうどうしようもないと諦めた現場であると相場が決まっているからだ。

彼ら・彼女らにできない救難・救命であれば日本中、いやおそらく世界を探しても、もう誰でも要救助者を救うことはできない。

文字通り、「もう後はない」ところで人々の命を救う、強く、優しく、カッコいいスペシャリストたちである。

これほどの要職を任される小川のことだ。

そのキャリアはいずれも充実した補職ばかりだが、敢えて一つ挙げるとすれば、それは前職の航空幕僚監部監理監察官のポストだろうか。

このポストは、平時においては部隊における規律のチェックや方針の浸透を調査するなど、全軍を俯瞰し、グリップすることが求められる任務である。

しかし一旦なんらかの重大な事故が起きると、その事故調査を担うことにもなる、大変つらいポストでもある。

もちろんそのような経験はしない方が良いのだが、不幸にも小川はその在任中に、航空事故の調査にあたることになってしまった。

おそらく皆さんの記憶にもまだ新しいであろう、鹿児島県の御岳山で発生した、U-125墜落事故だ。

この事故は2016年4月6日、鹿屋基地から1kmも離れていない山中で発生した。

航空自衛隊入間基地所属のU-125点検機は、海上自衛隊鹿屋基地周辺の飛行点検業務を行うため同日13時15分、鹿屋基地を離陸。

東向きに離陸し高度を得た後、所定の点検を終え西向きに進路を変え旋回中であった14時34分、御岳山の山腹に激突し乗員6名全員の尊い命が失われるという、非常に痛ましい事故となってしまった。

現場はやや雲がかかっていたものの、「視界が悪いというほどの状況ではない」コンディションであったとされ、風も強くない状況。

U-125が墜落に至る合理的な理由が全く見つからない状況の中で、事故調査委員長に着任した小川は、事故の主因を「機長の誤認識によるヒューマンエラー」と結論づけ、発表した。

共に戦ってきた航空自衛隊の仲間に対し、「パイロットのミス」という事故調査報告書を出すというのは、その心中いかばかりであろうか。

小川は併せて「複合的な要因が重なった」とも説明しているが、事故調査報告書は多くの部分を、機長の判断ミスとするものだった。

機長であった平岡勝3佐は、航空学生第44期の卒業でブルーインパルスの1番機(隊長機)を務めたほどの、凄腕のパイロットであった。

なお、航空事故調査委員会の報告書において、平岡3佐の誤認識が事故の主因と発表されて以降、3佐の名前を匿名にしたメディアが複数あるが、当サイトは平岡3佐の名誉は失われていないと考え、そのまま掲載している。

それは、航空事故の原因は、断言できるが決してひとつの単純要因に原因を帰せるようなものではないからだ。

事故報告書は「機長が山の標高を誤認識」し「副操縦士もその誤認識に気が付かなかった」と指摘する。

また墜落直前に「GPWS(対地接近警報装置)が作動しているにもかかわらず適切な対応をとらなかった」という趣旨の記載もあるが、正直素直には聞き辛い内容である。

もし、GPWSが作動しているにも関わらず適切な対応が採れないのであれば、GPWSの作動条件に問題があるか、GPWSが作動した際のチェックリスト(マニュアル)の内容か、あるいは容易な取扱性のいずれかに問題があると考えるべきだ。

もちろん、軍事組織である航空自衛隊が、事故原因の全てを詳らかにすることはおそらく難しいという事情もあるのだろう。

詳細な原因発表は、友好的でない周辺国家に様々な情報を与え、我が国の国防を揺るがす可能性もある。

その為、通り一遍の事故原因にせざるを得なかったという事情もあるのではないだろうか。

また平岡3佐でも回避できない事故であったのであれば、多くのパイロットでも同じ結果になった可能性を考慮し、再発防止の徹底を急いで欲しいと心から願う。

平岡3佐はそれほどの熟練パイロットであり、航空自衛隊屈指の操縦技術と冷静沈着なマインド、強い精神力を持った男であったことを、多くの同僚パイロットが語っている。

事故の記者会見に際し、同じパイロット出身の航空幕僚長・杉山良行(第24期)も、

「人間としても素晴らしく、パイロットとしても良い腕を持つ、熱いハートを持っていた男だった」

と、やや潤んでいるようにも見える目で、その死を惜しむ発言をしていたことが印象的であった。

事故を受け、平岡3佐のご尊父様は「混乱していて話せない」とマスコミを避けていたと報じられているが、ご子息の名誉は決して失われていない。

我が国の国防のため、その尊い人生を捧げられたことに、どうか父親として誇りを持って頂きたいと心から願う。

事故の原因は「パイロットの誤認」かも知れないが「平岡3佐だから起こった事故」では絶対に無い。

そして、このような発表をする役回りとなった小川の心中も非常に辛いものがあったのではないだろうか。

しかし、プライベートな感情と任務を切り分け、ただ淡々と合理的な説明をするのもまた、「軍事組織」たる自衛隊高官の仕事だ。

厳しいことだが、軍事組織が担っているものの重さ、厳しさを改めて感じた一件となった。

では、そんな要職を歴任してきた小川とは、これまでどのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。

少し詳細に、その経歴を見ていきたい。

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