【退役】平元和哉(ひらもと・かずや)|第30期・航空教育集団幕僚長

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平元和哉は昭和37年5月5日生まれ、石川県出身の航空自衛官。

防衛大学校第30期(電気工学科)、幹候は76期の卒業だ。

 

令和元年8月23日(2019年8月23日) 航空教育集団司令部幕僚長・空将補のポストを最後に勇退を迎えられた。

前職は航空自衛隊第2補給処長兼ねて岐阜基地司令であった。

(画像提供:航空自衛隊岐阜基地公式Webサイト

航空自衛隊の兵站を担い続けた熟練の最高幹部がまた1人、自衛隊を去った。

平元和哉・空将補だ。

 

将官に昇ってからの7年間では、

第1補給処長(木更津)

第1術科学校長(浜松)

第2補給処長兼ねて岐阜基地司令

と、常に兵站や航空機整備など、航空自衛隊が24時間365日、いつでも戦える体制を維持するために最前線にあった指揮官であった。

そして最後の補職では、後進を育成する航空教育集団の実務職のトップ、幕僚長を務めた。

 

言うまでもなく、航空機はパイロット1人の力で飛ばすことはできない。

世界中でほとんどのF-4戦闘機が退役している中、未だに現役でで飛ばし続けることができるのも、航空自衛隊の整備や補給の職人技の所以だ。

 

これは陸海空自衛隊に共通して言えることだが、表舞台で目立ち、活躍をしている職種にある幹部曹士がその力を発揮できるのも、裏方にある平元のような隊員たちが居るからに他ならない。

しかし私たち国民は、どうしてもブルーインパルスを見上げては心を踊らせ、機甲科の活躍に興奮し、護衛艦の一般公開に足を運んではその表舞台にいる隊員たちの活躍にばかり目を奪われていることはないだろうか。

 

やはり、裏方にある職種は目立たないので、それも仕方ないだろう。

しかしながら、ことこのような職種にある幹部が勇退の時を迎えた時にはせめて、その誇りある人生に想いを馳せてほしい。

決して目立つこと無く、国民から注目されることもない中で、それでもなお、私たちの生命と財産を守るために命をかけてきた自衛官人生があった。

その1人が、この平元である。

ぜひ、それぞれの立場で静かに、敬意と感謝を捧げて欲しい。

 

平元空将補、本当に長い間お疲れさまでした、ありがとうございました。

空将補のご活躍を、私たち多くの国民が記憶し、忘れることはないでしょう。

まずはゆっくりとお休みになって、積年のお疲れをお癒やし下さい。

そして新たに始まる空将補の第二の人生も、自衛官生活と同等かそれ以上に充実したものとなりますことを、心からお祈りしております。

 

本当にお疲れさまでした、ありがとうございました。

(2019年8月27日 最終更新)

 

◆以下、2018年4月までに更新した記事

**********

 

2018年4月現在、航空自衛隊第2補給処長兼ねて岐阜基地司令を務める平元だ。

航空自衛隊第2補給処は、主に航空機に関する補給を担当しており、部品の調達、保管、整備までを行う、航空機の正常な運用を担保するために欠かせない組織になっている。

 

しかしそれ以上に、平元が司令を務める岐阜基地といえば、ある意味において航空自衛隊の中核をなす組織が置かれていることで知られ、その存在感の大きさがやはり際立つ。

飛行開発実験団だ。

 

飛行開発実験団は、「空の勝利は技術にあり」の合言葉で知られる航空開発実験集団の隷下にあり、航空機やその装備品にかかる実験と開発を行い、その評価を通じて実戦投入の可否を試験する。

航空自衛隊の中でも指折りのパイロットたちが集まる組織だが、その分変わり者や偏屈者が多いことでも知られ、岐阜基地司令はそういった猛者たちを統御する事も大事な仕事になる。

 

ちなみに、2018年4月現在で飛行開発実験団司令のポストに在るのは、F-15戦闘機パイロット上がりで、前職では我が国の最前線である築城基地司令を務めた今瀬信之(第29期)

年次も平元より上であることを考えれば、基地司令としてもなかなか大変な苦労がありそうだ。

 

(画像提供:航空自衛隊岐阜基地公式Webサイト

さて次に、その平元のキャリアと、同期である30期組の動向を見てみたい。

平元が航空自衛隊に入隊したのは昭和61年3月。

1等空佐に昇ったのが平成17年1月であったので、30期組1選抜のスピード出世だ。

空将補に昇ったのは24年7月だったので、こちらは同期1選抜からちょうど1年遅れであったが、そもそも将官に昇る幹部の数が非常に少ない航空自衛隊だ。

1選抜の1年遅れは大した遅れにはならず、この先十分に、空将に昇る可能性のある最高幹部の一人と言ってよいだろう。

 

なお30期組は、2017年夏の将官人事で最初の空将が選抜された年次にあたる。

そのため同期1選抜とそれに続くものたちは既に空将にあるが、それは以下の幹部たちだ。

 

金古真一(第30期)・中部航空方面隊司令官(2017年8月)

井筒俊司(第30期)・西部航空方面隊司令官(2017年8月)

上ノ谷寛(第30期)・南西航空方面隊司令官(2017年12月)

※肩書はいずれも2018年4月現在。( )は空将昇任時期。

 

これら3名のうち、金古と井筒は共に空将補昇任、空将昇任共に1選抜で、30期組文句なしのスピード出世を繰り返すスーパーエリートだが、一方で上ノ谷は、空将補に昇ったのが25年3月(2013年3月)だったので、同期1選抜から1年8ヶ月遅れであった。

平元より遅い空将補昇任で、そこからわずか4年9月での2番手での空将昇任であった。

 

陸自ではなかなかない人事だが、空自では将官どころか1佐に昇るのが同期に2年遅れても、そこから怒涛の巻き返しを見せ、2選抜くらいで空将に昇ってしまうものが結構珍しくない。

2018年4月現在、航空支援集団司令官を務める空将・山田真史(第28期)なども、1佐に昇ったのが同期1選抜の実に2年遅れであったにも関わらず、空将に昇ったのは2番手であった。

航空自衛隊の人事は、時にこのような、良くわからないことを平気でしてしまう辺りも、「勇猛果敢 支離滅裂」と称されるゆえんなのだろう。

陸自ではありえない人事であり、組織ごとの文化の違いを感じる。

 

平元については、第2補給処長の補職も2年半になろうとしており、あるいは2018年夏の人事で異動になる可能性が高い。

後職についてはなかなか予想が難しいが、空幕の要職か、あるいは幹部学校などの要職に転じ、さらに活躍の場を広げていってくれることになるのではないだろうか。

 

後方支援職のエキスパートである平元だ。

その活躍からは目を離さずに、そして応援していきたい。

 

本記事は当初2017年7月31日に公開していたが、加筆修正が重なったので2018年4月16日に整理し、改めて公開した。

(画像提供:航空自衛隊岐阜基地公式Webサイト

◆平元和哉(航空自衛隊) 主要経歴

昭和
61年3月 防衛大学校卒業(第30期)
61年9月 第8航空団(築城)

平成
元年8月 第3輸送航空隊(美保)
3年8月 幹部侯補生学校(奈良)
6年4月 補給本部(市ヶ谷)
9年1月 3等空佐
9年3月 航空幕僚監部装備部(桧町)
10年3月 幹部学校付(目黒)
11年3月 航空幕僚監部防衛部(市ヶ谷)
12年7月 2等空佐
14年3月 第83航空隊(那覇)
15年8月 航空幕僚監部防衛部(市ヶ谷)
17年1月 1等空佐
18年3月 幹部学校付(目黒)
19年3月 航空幕僚監部人事教育部補任課人事1班長(市ケ谷)
20年4月 第5航空団整備補給群司令(新田原)
21年4月 航空幕僚監部人事教育部人事計画調整官(市ヶ谷)
21年7月 航空幕僚監部人事教育部援護業務課長(市ケ谷)
23年4月 統合幕僚監部総務部人事教育課長(市ヶ谷)
24年7月 第1補給処長(木更津) 空将補
25年8月 第1術科学校長(浜松)
27年11月 第2補給処長兼ねて岐阜基地司令
30年12月 航空教育集団司令部幕僚長

令和
元年8月23日 航空教育集団司令部幕僚長のポストを最後に勇退

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