新宅正章(しんたく・まさあき)は昭和40年生まれ、愛知県名古屋市出身の陸上自衛官。
防衛大学校第31期の卒業(国際関係)で幹候68期、職種は高射特科だ。
平成30年3月(2018年3月) 自衛隊山梨地方協力本部長・1等陸佐
前職は小平学校総務部長であった。
(画像提供:自衛隊山梨地方協力本部公式Webサイト)
(画像提供:第13旅団公式Webサイト 第13高射特科中隊)
2019年4月現在、自衛隊山梨地方協力本部長を務める新宅だ。
昭和40年の生まれだが、31期はストレートでも昭和39年度の生まれにあたる。
そのため、生年月日は昭和40年1月~3月の早生まれということになりそうだ。
さて、その新宅が本部長を務める地方協力本部の任務だが、若者を自衛隊に勧誘し一人でも多くの隊員を確保すること。
定年に達し、あるいは任期を終えて退官する自衛官に第二の人生を用意すること。
そして、自衛隊の蓄積したノウハウや知見を民間に提供し、もって防災などの役に立ててもらうこと、などとなる。
そのためには、地域の企業や住民と非常に密接に、そして良好な人間関係を築き上げる事が不可欠なポジションであり、いわば「自衛隊の営業部長」と言ったところだろうか。
当然のことながら、自衛官として極めて優れた知見を備えた幹部であることはもちろん、人間的な魅力に溢れ、そして高いコミュニケーション能力を持つ幹部しか、その要職を任されることはない。
そんな要職に抜擢された新宅だが、一方でそのキャリアは一風変わったものとなっている。
もちろん、二人として全く同じキャリアを持つ幹部自衛官などいないわけだが、それにしても新宅の場合は、インド通でありながら米中央軍にも派遣された経験を持ち、情報将校としても活躍し、また高射特科の現場もガッツリと経験しているなど、とても特徴的だ。
特筆することだらけであり、何をご紹介してよいのかわからないほどだが、やはり豊富な海外経験が特に印象的なので、少しご紹介していきたい。
新宅は平成13年3月、当時から既に躍進著しかったインドに留学し、その国防幕僚大学に学んでいる。
そして14年8月、帰国するや否やそのままアメリカに派遣され、米中央軍の連絡将校という非常に重要な任務を任された。
なお、この米中央軍の連絡将校というポストについて。
我々一般国民がほとんど知ることはないのだが、それでいて極めて重要なポストでなので、ぜひ覚えておいて欲しい。
現役の幹部では、統合幕僚監部の総務部長を務める空将補の尾崎義典(第32期)や、内閣審議官(国家安全保障局担当)を務める海将補の伊藤弘(第32期)といったエース級も派遣されている要職である。
なおかつ新宅の場合、派遣されていたのが平成14年8月からということなので、おそらく統幕(当時は統幕会議)が米中央軍に連絡官を派遣し始めた、第1号の幹部自衛官ということになるのではないだろうか。
そして当時、新宅はこのポストで何をしていたのか。
平成14年当時といえば、米軍がイラク戦争後の戦後処理を含めて、中東情勢をどのように進めていこうとしているのかを見極めようとしていた時期にあたる。
そしてそのために我が国は、テロ対策特措法やイラク人道復興支援特措法の範囲内で、同盟国として何ができるのか。
米軍の意向と情報を収集し、そして時には、実質的な交渉役も担うというのが、新宅に任された任務であった。
いわば、我が国がどれほど世界平和にコミットし、その存在感を発揮していくのか。
その最前線と言っても良いほどのポストだったわけだが、新宅はその最初の派遣幹部という、非常に重い責任を担った。
おそらく現役中も、退役した後も、当時のことを語ることはないと思われるが、国防の機密に関わる、相当重要な交渉にも数多く携わったのではないだろうか。
なお余談だが新宅は、この米中央軍連絡官のポストをやり遂げ帰国すると、そのまま直行便で3年間、在インド防衛駐在官としてニューデリーに派遣されている。
まったくもって、人使いの荒い陸上自衛隊である・・・。
そんな新宅だが、海外経験以外ではどのようなポストを歴任しているのか。
その同期の動向と併せて、詳細にキャリアを見てみたい。
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