小瀬幹雄は昭和38年12月7日生まれ、兵庫県出身の陸上自衛官。
昭和61年3月に東京大学工学部土木工学科を卒業し陸上自衛隊に入隊しているので、第30期相当ということになる。
幹候67期で出身職種は施設科。
令和元年8月(2019年8月) 第5旅団長・陸将補
前職は西部方面総監部幕僚長兼ねて健軍駐屯地司令であった。
なお、第5旅団長としての指導方針は以下の通り。
【統率方針】
「即動し強靭な第5旅団として使命を果たせ」
【要望事項】
「真に戦える指揮官の育成」
「真に戦える戦士の育成」
「作戦基盤の確立」
(画像提供:陸上自衛隊第5旅団公式Webサイト)
2019年11月現在、北海道の帯広に所在する第5旅団で、旅団長の要職にある小瀬だ。
ジョギングや旅行を趣味にする東大出身の英才であり、我が国の「北辺の防人」として、東北海道の平和と安全に重い責任を担う。
言うまでもなく、その警備担当は我が国でもっとも過酷な気象条件を突きつけられる地域ばかりであり、幹部曹士に至るまで精鋭ぞろいの部隊のトップに立つ。
ところで今回、この小瀬が第5旅団長に上番したことによって、「事実上、史上初」の珍事となったことをご存知だろうか。
先述のように小瀬は、東京大学を卒業し純U(純粋な一般大学卒業生)の幹部候補生として陸上自衛隊に入隊しているのだが、実はこれで、第5旅団長のポストは、
第8代 正木幸夫(第28期相当)
第9代 堀井泰蔵(第32期相当)
第10代 小瀬幹雄(第30期相当)
と、3代連続して一般大学の卒業生が上番することになった。
これは、第5旅団の前身である第5師団の時からカウントしても戦後初であり、師団・旅団単位の指揮官が3代連続して一般大学出身者となるのも事実上、史上初の珍事である。
なお、「事実上、史上初」というからには、全く0であったわけではない。
実は1980年代、自衛隊マニアであればご存知だと思うが、陸上自衛隊に限らず自衛隊は、「人事の空白期間」を経験している。
すなわち、旧軍出身者で戦前の陸士などを卒業し、戦後自衛官になった幹部が1980年代に次々に定年退官を迎えたのだが、その時はまだ、防衛大学校1期生は陸将になる年次を迎えていなかった。
そのため、1980年代前半から後半にかけては、陸上幕僚長、各地の方面総監クラス、師団長クラスが全て一般大学の卒業生で占められていたことがある。
さすがにこの時期は、第2・第4師団などで3代連続して一般大学卒業生が師団長に着任しているが、もちろんその後、防衛大学校卒業生が次々に陸将に昇るようになり、以降そのような配置は一度も行われていない。
決して一般大学卒業生が出世に不利というわけではないのだが、やはり一般大学の卒業生が3代連続して、師団・旅団編成の組織でトップに就くのは相当異例のことである。
今回、小瀬の第5旅団長着任でそのような「記録」が生まれた。
ぜひ、そんな意味でも小瀬の活躍には注目して欲しい。
そんな小瀬であるが、そのキャリアの中で目立つものと言えば、やはり平成18年1月から務めた、イラク復興業務支援隊長のポストだろうか。
ご存知のようにイラク復興支援業務は、常に死の危険と隣り合わせの過酷な任務であった。
なお歴代の支援隊長は、
初代 佐藤正久(第27期)
第2代 田浦正人(第28期)
第3代 岩村公史(第29期)
第4代 斎藤剛(第28期)
第5代 小瀬幹雄(第30期相当)
となっている。
言い換えれば、もっとも困難な戦場からの撤退、すなわち”殿(しんがり)”の役目を、小瀬は任されたということになる。
また、初代の隊長である佐藤は、「ひげの隊長」として知られる現・参議院議員だ。
2代目の田浦は、令和元年8月に北部方面総監で勇退をした、28期の陸上幕僚長候補であった。
いずれの幹部も、イラクに赴任する際には遺書を認(したた)め、家族に別れを告げてから現地に渡るなど、悲壮な決意で任務に臨んだことで知られる。
小瀬は、そのような極めて困難なイラク復興業務支援隊の最後の隊長を任され、誰一人として犠牲を出さずに、戦場から無傷で撤退することを任された幹部であった。
その一点でも、けっして小瀬が、東大出身の頭でっかちの幹部ではないことがおわかり頂けるのではないだろうか。
併せて、若手幹部の頃からすでに、陸自内外から小瀬にかけられる期待の大きさも、窺い知ることができるような平成18年の指揮官任務であった。
では、そんな小瀬とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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