【退役】宮川正(みやがわ・ただし)|第26期相当・航空自衛隊

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宮川正は昭和34年9月生まれ、長野県出身の航空自衛官。

日本大学法学部を卒業し、昭和57年3月に航空自衛隊に入隊した幹候72期生であり、第26期相当ということになる。

 

平成29年12月20日(2017年12月20日) 第8代情報本部長・空将のポストを最後に、自衛隊を去ることが決まった。

前職は西部航空方面隊司令官であった。

 

 

【以下、2017年12月17日加筆】

予想されていたこととは言え、宮川の退役は本当に、本当に残念だ。

一般大学卒業生でありながら、そのキャリアは航空幕僚長に昇ってもおかしくないほどに充実したものであった。

そしてその存在は、一般幹部候補生として自衛官になった全ての者にとって憧れであり、励みであったはずだ。

 

宮川は日大法学部を卒業し、航空自衛隊に入隊。

超難関という言葉では生ぬるいF-15戦闘機パイロットとして活躍し、なおかつその初任地は第2航空団第201飛行隊で、千歳にF-15が初配備となった時の立ち上げメンバーである。

 

中央では、空幕防衛部や運情部(運用支援・情報部)といったエリート街道で要職を歴任。

さらに防衛駐在官の花形・米国防衛駐在官にも抜擢されるなど、絵に描いたようなキャリアであった。

 

一方の現場指揮経験についても、2017年現在、航空自衛隊最高幹部にとって必要な現場を全て経験してきたと言って良いだろう。

航空団司令相当職は第83航空隊司令(現・第9航空団:那覇)。

方面隊司令官は西部航空方面隊で着任し、指揮を執った。

 

なお、2017年12月に航空幕僚長に着任した丸茂吉成(第27期)は、それぞれ第8航空団司令と(築城)西部航空方面隊司令官。

前任であった杉山良行(第24期)は南西航空混成団司令(現・南西航空方面隊司令官)上りである。

つまり中国人民解放軍や朝鮮半島情勢を考えると、西部・南西方面での経験が極めて充実していることが航空幕僚長に必須で求められる条件となっているわけだが、これに加え米国通であり、豊富な人脈を持っていることも必須になるだろう。

そして宮川は、その全てを兼ね備えており、2017年12月現在で、我が国にとって必要な全ての知見を積み上げてきた空将であった。

それだけに宮川の退役は本当に残念であり、寂しい。

 

今はただ、これまでの功績に対し心からの感謝をお伝えして、栄誉ある自衛官生活に最大限の賛辞をお送りしたい。

本当にありがとうございました、お疲れ様でした。

40年近くぶりとなる、任務のない年末年始は逆に張り合いがないかもしれませんが、積年のお疲れを癒やして、ご家族とともに穏やかなお正月をお迎えして下さい。

 

宮川空将の第2の人生が幸多きものとなりますように、心からお祈りしています。

 

 

【以下、2017年11月1日加筆】

月並みな表現で恐縮だが、この男は本当にすごい。

世間一般ではよく、自衛隊幹部の出世について、一般大学卒業生は防衛大学校の卒業生に比べ不利で、なおかつ遅いと言われている。

実際にそういう側面もあるだろう。

そして、あるいはそのことを理由にして幹部自衛官の受験を迷っている学生もいるかもしれない。

 

しかし、そんな若者がいれば、ぜひ送りたい言葉がある。

「何を小さなことを言ってるんだ。宮川正空将を知らないのか?」

と。

 

ではそんな宮川とはどれだけ凄い男なのか。

そのキャリアを追っていきたい。

 

宮川が航空自衛隊に入隊したのは昭和57年3月。

日本大学法学部を卒業して航空自衛隊に入隊しているので、一般に自衛隊幹部の出世では不利と言われることもある一般大学の卒業生な上に、文系である。

普通に考えれば、出世など出来るはずが無いと、誰もが思うかもしれない。

 

しかし宮川は、防衛大学校卒業生ですらほとんど合格できない戦闘機パイロットの選抜過程を次々にパス。

そして戦闘機パイロットに選抜されたばかりか、我が国の戦闘機パイロットとしては最高の栄誉とされるイーグルドライバー、すなわちF-15戦闘機パイロットに任命される。

 

そしてその初任地は、第2航空団第201飛行隊(北海道・千歳)。

時に昭和61年のことであり、なおかつこの年は、第2航空団にF-15戦闘機部隊が初めて編成された年であり、その栄えある201飛行隊の初代メンバーとして配属されたことになる。

 

しかも当時は米ソ冷戦の真っ只中であり、北海道千歳で編成されたばかりのF-15戦闘機を預けられるということは、我が国の国防にあたる最前線を任されたに等しい。

これほど名誉な任務はなかなか無いであろう時代に、これ以上はない場所に配属される程の期待を一身に背負い、宮川はパイロット人生のデビューを果たした。

 

そしてその期待に応えるかのように、宮川は連日連夜、厳しいスクランブル任務で空に上り続ける。

なおかつ、当時の防空事情は極めて過酷だ。

 

2017年11月現在の情報だが、2016年度のスクランブル回数は1168回であることが発表されており、これは過去最多の数字になっている。

ここ数年で急増しているわけだが、その多くは対中国人民解放軍向けだ。

 

そして宮川がスクランブルに上がっていた昭和60年代後半から平成初期にかけては、同様に対ソ連向けのスクランブルが急増していた時代であり、その数は実に900回超。

対中国人民解放軍向けのスクランブル急増が世間を騒がせている現在と同等の過酷さで、連日のように空に上っていたことが窺える数字になっている。

 

このようにして、最前線を任された男は20代から30代前半にかけての青年期を、我が国の平和と安全のために捧げ続けた。

 

 

さらに、その後のキャリアが本当に凄い。

昇任過程を見てみると、1等空佐に昇ったのが平成11年6月。

実は、第26期相当の幹部自衛官が1等空佐に昇るのは、1選抜であっても13年1月である。

これは自衛隊の人事制度上の決まりであり、どれほど優秀な幹部であってもこれ以上速くなることはない。

 

ではなぜ宮川は、その規則を無視するかのように1年半も速く1等空佐に昇ったのか。

それは余りに優秀であった故の特別昇任・・・と言いたいところだが、さすがに軍事組織にはそんなアニメのような話はない。

 

宮川は平成11年6月から米国防衛駐在官に任命され、自衛隊の海外勤務としては最高の出世街道の一つであるポストを任されているのだが、この赴任に先立って1等空佐に昇った形だ。

なぜ米国防衛駐在官に選ばれたものだけが、人事上の規則以上にスピード昇任できるのかは正直詳細を承知していないが、他には陸上自衛隊の納富 中(第29期)が、同様に6年の査定期間が必要な陸将補への昇任を4年で果たし、米国防衛駐在官に。

また同じ陸自の原田智総(第31期)も同様に、1選抜よりも半年速く1等陸佐に昇り、米国防衛駐在官として赴任している。

 

恐らく外交儀礼上の事もあろうかと思うが、いずれにせよ米国防衛駐在官を任されるのは自衛隊において最高の栄誉の一つだ。

いずれ1選抜で昇任することは確実であり、外務省に出向する前に昇任させておこうという事なのかもしれない。

 

そして米国から戻った宮川は、その後も出世街道を突き進む。

空将補に昇ったのが平成19年7月なので、こちらは第26期の通常の1選抜(1番乗り)だ。

そして空将に昇ったのが平成25年8月。こちらも同期1選抜である。

これ以上はない、全てが最速のスピード出世であり、宮川に言わせれば、

「一般大学卒業生は出世に不利?え?」

と言われそうな程の結果を残し続ける。

 

なおかつ、その歴任してきたポストも最重要ポストばかりである。

航空団司令相当職は第83航空隊司令。

現在の第9航空団であり、沖縄の那覇に所在する、我が国のホットスポットを守る部隊である。

そして航空方面隊司令ポストは西部航空方面隊。

まさに国防の最前線で我が国の安全を守り続ける部隊ばかりであり、中国人民解放軍の傍若無人な振る舞いが加速する国際環境の中で、その最前線に立ち続けたのが宮川であった。

 

これほどのキャリアがあり、なおかつ米国通でもある宮川だが、その2017年10月現在で補職されているポストは情報本部長。

このポストは過去に1人だけ、外薗健一朗(第18期)が第30代航空幕僚長にジャンプアップした実績があるが、率直に言って航空幕僚長に昇るポストとは見做されていない。

 

一般的に、第34代航空幕僚長である杉山良行(第24期)の跡を継ぎ、第35代航空幕僚長に昇るのは前原弘昭(第27期)・航空総隊司令官か、丸茂吉成(第27期)・航空幕僚副長(肩書は共に2017年10月現在)と見做されているが、宮川がその後を継いでも何らサプライズではない。

もちろん、世間的には相当なサプライズとして大きなニュースになるだろう。

もし一般大学出身者が航空幕僚長に着任すれば、戦後の混乱期と、1980年代に発生した「防大卒業生の空白期間」を除き、史上初の快挙となる。

 

本当にこんなサプライズがあるのか、なかなか予想しづらいところだが、「勇猛果敢・支離滅裂」の航空自衛隊である。

史上初めて、女性を指揮幕僚課程に進ませ、なおかつ3自衛隊で初めてとなる女性将官を誕生させたのも航空自衛隊であった(医官を除く)。

 

保守的であるはずの軍事組織において、このようなことを次々とやり遂げてきた航空自衛隊である。

その能力が卓越したものであるならば、一般大学卒業生から航空幕僚長に着任させるなど、何ら迷わずにやってのけそうではある。

なおかつ、宮川の極めて充実したキャリアであり、実績だ。

 

第35代航空幕僚長人事は、恐らく2017年12月か、遅くとも2018年3月までであろう。

ひょっとすれば、宮川の名前が呼ばれることがあるかもしれず、非常に楽しみである。

 

◆宮川正(航空自衛隊) 主要経歴

昭和
57年3月 航空自衛隊入隊(第26期相当)
61年6月 第2航空団201飛行隊

平成
5年1月 3等空佐
8年7月 2等空佐
11年6月 米国防衛駐在官 1等空佐
14年7月 航空幕僚監部防衛課
15年3月 航空幕僚監部装備体系課第1班長
16年8月 第2航空団飛行群司令
17年8月 統合幕僚会議第3幕僚室企画官
18年3月 統合幕僚監部運用第1課長
19年7月 航空幕僚監部防衛部 空将補
20年8月 第83航空隊司令
22年12月 航空幕僚監部運用支援・情報部長
24年1月 航空幕僚監部人事教育部長
25年8月 西部航空方面隊司令官 空将
26年8月 情報本部長

 

【注記】

このページに使用している画像の一部及び主要経歴は、防衛省のルールに従い、防衛省のHPから引用。

主要経歴については、将補以上の階級のものにあっては防衛年鑑あるいは自衛隊年鑑も参照。

自衛官各位の敬称略。

※画像はそれぞれ、軽量化やサイズ調整などを目的に加工して用いているものがある。

【引用元】

防衛省航空自衛隊 西部航空方面隊公式Webサイト(講演会および視察写真)

http://www.mod.go.jp/asdf/wadf/activi/activ3/26act/2601/index1.html

http://www.mod.go.jp/asdf/wadf/activi/activ3/25act/2510/index1.html

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2件のコメント

日本国自衛隊データベース 様

 ここまで私をフォローしていただき、本当にありがとうございます。心より感謝致します。
昨年末退官後、携帯電話を自宅に忘れて出掛ける程、家族とゆっくりさせて頂きました。この4月より再就職し、第二の人生がスタートしました。これまでの経験を生かし頑張って行きます。
 引き続き、自衛隊、自衛官に対する絶大なるご支援、ご鞭撻をよろしくお願いいたいします。

宮川拝

宮川元空将様

宮川様からの直接のコメント、大変嬉しく思っております。
こちらこそ、心から感謝申し上げます。
宮川様の数々のご活躍に、あるいは一般大学からの空幕長もあるかと、その可能性を夢見ておりましたが、ご退職は本当に残念でした。
長年に渡るご勤務と、国防に尽くされた崇高な人生に心からの敬意と感謝を申し上げます。
本当にお疲れ様でした、ありがとうございました。
携帯電話も忘れるほどゆっくりとされたエピソードに、ほっこりさせて頂きました。

そしてまた、4月から新たなスタートを切られたとのことで、本当におめでとうございます。
宮川様のご経験が活きる素晴らしい第二の人生であると確信申し上げております。
今後もぜひ、民間人の立場から時には国防にご意見をされ、活躍されることをご期待しております。
コメント頂きまして、ありがとうございました。

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